広島へ()せられた様々な援助(えんじょ)

「広島の家」の建設(けんせつ)

 森林学者のフロイド・シュモー氏は、広島・長崎(ながさき)への原子爆弾(げんしばくだん)の投下に良心が(きず)つき、住居(じゅうきょ)を失った広島の人々へ家を建てることを計画した。
 資金(しきん)募金活動(ぼきんかつどう)を行い、1949年(昭和24年)8月、シュモー氏は仲間とともに最初の家の建設(けんせつ)を始めた。


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建設(けんせつ)が進む「広島の家」 1949年(昭和24年)9月13日 皆実町(みなみまち) 「広島の家」の建設(けんせつ)は、手始めとして、市が皆実町(みなみまち)建設予定(けんせつよてい)だった市営住宅(しえいじゅうたく)敷地(しきち)二軒(2けん)長屋を2棟(ふたむね)建設(けんせつ)することになった。夏の暑い最中、仲間と共に協力し合い作業は続けられた。

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建設(けんせつ)(たずさ)わった仲間とともに 1949年(昭和24年) 広島流川教会(上流川町) 最初の「広島の家」の建設(けんせつ)の時には、シュモー氏たちは、広島流川教会に宿泊(しゅくはく)し、作業にあたった。作業には日本人も参加した。

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皆実町(みなみまち)建設(けんせつ)された「広島の家」の間取り シュモー氏の報告(ほうこく)によると台所、トイレ、6畳(6じょう)の和室2部屋が(もう)けられていた。

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完成した「広島の家」の前での記念撮影(きねんさつえい) 1949年(昭和24年) 皆実町(みなみまち) 最初に完成した皆実町(みなみまち)の家には、3,800家族から入居希望(にゅうきょきぼう)があり、広島市による抽選(ちゅうせん)で、4家族に決まった。

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庭園の石灯ろうを見ながら話すシュモー氏と浜井市長(はまいしちょう) 1949年(昭和24年)10月1日 皆実町(みなみまち) 庭園の石灯ろうには、日本語で「祈平和」、英語で「That There May Be Peace」というシュモー氏の思いが(きざ)まれた。シュモー氏にとって住宅(じゅうたく)と庭園は希望と(いの)りの象徴(しょうちょう)だった。

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「広島の家」を建設(けんせつ)する
フロイド・シュモー氏
1952年(昭和27年)10月4日  江波町(えばちょう)

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シュモー氏が思い(えが)いた家の形 江波町(えばちょう) 1950年(昭和25年)に再来日(さいらいにち)した時には8軒(8けん)の家が建設(けんせつ)され、その中には、テラスや浴室を(そな)えた、新しい型式の家もあった。モデルハウスとして一般市民(いっぱんしみん)に公開された家もあり、多くの人たちが来場した。

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江波皿山(えばさらやま)のふもとに集まった「広島の家」 江波町(えばちょう) 江波皿山(えばさらやま)のふもとには、1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて毎年、家が建てられた。1951年(昭和26年)には住宅(じゅうたく)だけでなく、集会所も建設(けんせつ)された。
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1950年(昭和25年)の
「広島の家」の最終(さいしゅう)報告書(ほうこくしょ)(複製(ふくせい))
報告書(ほうこくしょ)によるとこの年は、「広島の家」の計画に参加した世界中の約500人の人たちから資金(しきん)が1万ドル以上集まり、家づくりを行った。作業は9人であたり、モデルハウスや市内の江波町(えばちょう)に8(けん)の家を建設(けんせつ)した。