国内の援助が不足する中、海外からの支援は大きな助けとなった。食糧や衣類などの生活物資や資金の送付が中心となり、原爆で身寄りを失った子どもたちへの援助や住宅の建設も行われた。また、海外では出版物や被爆者自身の講演を通して被爆の実態が世界へ知られるようになり、海外からの支援が広がるきっかけとなった。
海外へ広がる被爆体験
米国のジャーナリスト、ジョン・ハーシー氏が、広島の6人の被爆者を取材した記事は1946年(昭和21年)8月31日、米国の雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、大きな反響を呼んだ。また、「ニューヨーカー」で紹介された広島流川教会の谷本清牧師は、全米各地で自身の被爆体験と平和の大切さを訴えた。海外の原爆報道や谷本氏の活動は、その後の海外からの支援活動へとつながっていった。
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雑誌「ニューヨーカー」
1946年(昭和21年)8月31日
ジョン・ハーシー氏のルポルタージュ「ヒロシマ」が最初に掲載された雑誌。ハーシー氏は、特派員として被爆の翌年、1946年(昭和21年)5月に広島を訪れ、牧師、医師、事務員など6人を取材。被爆体験や当時の救護活動が克明に記され、一般の人たちが無差別に犠牲となる原爆の恐ろしさを訴えている。 |
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被爆者の講演会を知らせる記事
1949年(昭和24年)7月4日
「オレゴニアン」
初めて聞く被爆者の体験談と平和への思いに多くの米国人は、衝撃を受けた。谷本氏の母校であるアトランタ市のエモリ-大学では、講演に共鳴し、広島支援の計画が立ち上げられた。谷本氏は、その後、何度も渡米し、広島への支援と平和の大切さを生涯訴え続けた。
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ジョン・ハーシー氏
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谷本牧師の
講演旅行ノート
ノートには、広島流川教会の谷本牧師が全米各地で行った講演や滞在の様子について記されている。最初の渡米の時には、1948年(昭和23年)10月から1949年(昭和24年)12月まで31州256都市を回り、教会や学校などで500回以上の講演を行った。 |
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