廃虚(はいきょ)での救援活動(きゅうえんかつどう)

 被爆(ひばく)前の救援体制(きゅうえんたいせい)は、原爆(げんばく)のすさまじい破壊力(はかいりょく)により一瞬(いっしゅん)にして崩壊(ほうかい)した。
被爆(ひばく)直後から、陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令部所属部隊(しょぞくぶたい)(「(あかつき)」部隊)が中心となり、生き残った医師(いし)たちや市の周辺部の地域(ちいき)からの救護班(きゅうごはん)などが救援活動(きゅうえんかつどう)にあたった。しかし、医薬品や包帯などの衛生材料(えいせいざいりょう)は不足し、多くの人が()くなった。
 8月末には、このような悲惨(ひさん)状況(じょうきょう)赤十字(せきじゅうじ)国際(こくさい)委員会(いいんかい)駐日(ちゅうにち)主席(しゅせき)代表(だいひょう)のマルセル・ジュノー氏へ伝えられ、9月初めに同氏から医薬品が広島へ(とど)けられた。


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人々の治療(ちりょう)にあたる救護班(きゅうごはん) 1945年(昭和20年)8月7日 広島市信用組合本部前(横川町3丁目)
爆心地(ばくしんち)から1,700m
被爆(ひばく)直後から被害(ひがい)比較的(ひかくてき)軽微(けいび)であった陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令部所属部隊(しょぞくぶたい)(「(あかつき)」部隊)が中心となり、救護活動(きゅうごかつどう)が行われた。県内外からも救護班(きゅうごはん)派遣(はけん)され、負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)治療(ちりょう)にあたった。

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川沿(かわぞ)いに(もう)けられた仮設(かせつ)救護所(きゅうごじょ) 1945年(昭和20年)8月8日 基町(もとまち) 爆心地(ばくしんち)から1,150m 病院、救護所(きゅうごじょ)のほとんどが被害(ひがい)を受け、焼け残った鉄筋(てっきん)コンクリートの建物や河原(かわら)、橋のたもとなど負傷者(ふしょうしゃ)が集まったところに臨時(りんじ)救護所(きゅうごじょ)(もう)けられた。
 
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懸命(けんめい)看護(かんご)を続ける人々 1945年(昭和20年)8月 第一国民学校(段原(だんばら)山崎町(やまさきちょう))
爆心地(ばくしんち)から2,600m
医師(いし)看護婦(かんごふ)だけでなく、地域(ちいき)警防団(けいぼうだん)婦人会(ふじんかい)なども救護活動(きゅうごかつどう)にあたった。また、行方不明となっていた肉親を見つけ、懸命(けんめい)看病(かんびょう)する家族の姿(すがた)もあった。

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(きず)つき苦しむ子ども 1945年(昭和20年)8月
第一国民学校(段原(だんばら)山崎町(やまさきちょう))
爆心地(ばくしんち)から2,600m
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フリッツ・
ビルフィンガー氏から
マルセル・ジュノー氏へ
()てた電報(でんぽう)
(複製(ふくせい))
1945年(昭和20年)
8月30日付

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マルセル・ジュノー氏 マルセル・ジュノー氏は、赤十字(せきじゅうじ)国際(こくさい)委員会(いいんかい)駐日(ちゅうにち)主席(しゅせき)代表(だいひょう)として1945年(昭和20年)8月9日に来日。ジュノー氏は、8月末に広島方面で連合国軍の戦争(せんそう)捕虜(ほりょ)調査(ちょうさ)をしていた派遣員(はけんいん)のフリッツ・ビルフィンガー氏から広島の惨状(さんじょう)について報告(ほうこく)を受けると、連合国最高指令官総指令部(そうしれいぶ)(GHQ)と交渉(こうしょう)し、医薬品を直ちに、広島へ(とど)けた。
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(とど)けられた医薬品