はじめに

 原爆(げんばく)により、焦土(しょうど)となった街で、人々は、再建(さいけん)の道を歩みはじめたが、食糧(しょくりょう)などの生活物資(せいかつぶっし)は不足し、原爆(げんばく)によって体をむしばまれた人々は、以前のように働くことができず苦しい生活を余儀(よぎ)なくされた。
 連合国による原爆(げんばく)報道(ほうどう)規制(きせい)などもあり、原爆(げんばく)被害(ひがい)の実相や被爆者(ひばくしゃ)の苦しみは国内に広く知られることはなく、国による援護(えんご)医療(いりょう)()(おく)れ、被爆者(ひばくしゃ)援護法(えんごほう)制定(せいてい)されたのは被爆(ひばく)から12年後の1957年(昭和32年)のことであった。この間、広島市民を(ささ)えたのは、市民自身の地道な取組と国内外からの温かい支援(しえん)だった。
 中でも海外では、原爆(げんばく)報道(ほうどう)(きび)しく規制(きせい)された国内に(くら)べ、いち早く被害(ひがい)状況(じょうきょう)報道(ほうどう)されたことにより、支援(しえん)の手が()()べられた。
 企画展(きかくてん)では、物心両面にわたり、被爆者(ひばくしゃ)援護(えんご)復興(ふっこう)の大きな(ささ)えとなった海外からの温かい支援(しえん)と国内で支援(しえん)に関わった人たちなどに焦点(しょうてん)を当て、それらの活動を紹介(しょうかい)する。

海外へ伝えられる惨状(さんじょう)

 広島への原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)は、米国トルーマン大統領(だいとうりょう)によって日本時間の8月7日早朝、ラジオで発表された。その後、海外の多くの新聞が原爆(げんばく)について報道(ほうどう)したが、実際(じっさい)に、海外の特派員(とくはいん)が広島に入り、被害(ひがい)状況(じょうきょう)を海外へ伝えたのは8月末ごろからであった。広島に入った特派員(とくはいん)の目に写ったものは、跡形(あとかた)もなく破壊(はかい)された廃虚(はいきょ)の街と(きず)つき次々と()くなっていく人々の姿(すがた)だった。

1
「デイリー・エクスプレス」で
紹介(しょうかい)された広島の街
1945年(昭和20年)8月
上流川町付近(現在(げんざい)鉄砲町(てっぽうちょう))
爆心地(ばくしんち)から870m
2
レスリー・ナカシマ氏の報道(ほうどう)にある
福屋(ふくや)旧館(きゅうかん)(左)と福屋新館(しんかん)(右)
1945年(昭和20年)8月 胡町(えびすちょう)
爆心地(ばくしんち)から710m
3
ウィルフレッド・バーチェット氏の
報道(ほうどう)
1945年(昭和20年)9月5日 「デイリー・エクスプレス」 英国の新聞、「デイリー・エクスプレス」のウィルフレッド・バーチェット記者は、9月初めに広島市内に入り、破壊(はかい)された広島城(ひろしまじょう)などの状況(じょうきょう)報告(ほうこく)した。
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4
レスリー・ナカシマ氏の報道(ほうどう) 1945年(昭和20年)8月30日
「ホノルル・スター・ブレティン」
ハワイ生まれの日系二世(にっけいにせい)のレスリー・ナカシマ氏は、8月22日、郷里(きょうり)の広島市に(もど)っていた母親を(さが)すため市内に入り、現地(げんち)状況(じょうきょう)をUPから打電。市内中心部がわずかな鉄筋(てっきん)コンクリートの建物を残すだけで廃虚(はいきょ)と化し、救護所(きゅうごじょ)では毎日犠牲者(ぎせいしゃ)が出ていることが報告(ほうこく)されている。
  5
レスリー・ナカシマ氏の報道(ほうどう)にある
天井(てんじょう)()け落ちた広島駅
1945年(昭和20年)10月 松原町
爆心地(ばくしんち)から1,900m