苦しい生活に()える

 人々は、原爆(げんばく)住居(じゅうきょ)を失い、食糧(しょくりょう)や衣料など物資(ぶっし)の不足により苦しい生活を送っていた。またプレスコードにより、原爆(げんばく)報道(ほうどう)原爆(げんばく)に関する医療(いりょう)などの研究も制限(せいげん)されたため、被爆(ひばく)実態(じったい)が十分に伝わらず、被爆者(ひばくしゃ)に対する差別や偏見(へんけん)が生まれた。被爆者(ひばくしゃ)は、(きび)しい環境(かんきょう)()えながら、懸命(けんめい)に生きていこうとしていた。


13
救護所(きゅうごじょ)閉鎖(へいさ) 1945年(昭和20年)10月 大芝(おおしば)国民(こくみん)学校(大芝町(おおしばちょう)) 戦時災害(せんじさいがい)保護法(ほごほう)により2ヵ月間は無償(むしょう)救護(きゅうご)され、食糧(しょくりょう)や衣類の配給を受けることができた。広島市でも10月5日まで法律(ほうりつ)適用(てきよう)されたが、それ以降(いこう)は、治療費(ちりょうひ)自己負担(じこふたん)となった。救護所(きゅうごじょ)閉鎖後(へいさご)は、大芝(おおしば)国民(こくみん)学校などで治療(ちりょう)が続けられた。

14
()(あと)に建てられたバラック 1945年(昭和20年)10月15日 横川駅付近 戦時災害(せんじさいがい)保護法(ほごほう)が打ち切られた後、被爆者(ひばくしゃ)への特別な援護(えんご)はなく、生活保護法(ほごほう)など一般的(いっぱんてき)福祉制度(ふくしせいど)しか(たよ)るものはなかった。焼け残った資材(しざい)を集めて(つく)ったバラックに住み、物資不足(ぶっしぶそく)(なや)まされながら、その生活は困難(こんなん)を極めた。
15
被爆者(ひばくしゃ)の連帯 不足する援護(えんご)に対しては、被爆者(ひばくしゃ)自身(じしん)が立ち上がるしかなかった。
1948年(昭和23年)には、本川小学校で原爆(げんばく)(きず)ついた女性(じょせい)たちの集会が開催(かいさい)され、1951年(昭和26年)には、吉川清(きっかわきよし)氏を中心に「原爆(げんばく)傷害者(しょうがいしゃ)更生会(こうせいかい)」が組織(そしき)され、生活改善(せいかつかいぜん)など被爆者(ひばくしゃ)が直面している問題が話し合われた。吉川(きっかわ)氏は、「原爆(げんばく)1号」として海外に紹介(しょうかい)され、原爆(げんばく)ドーム横のみやげ物店を(いとな)みながら被爆者(ひばくしゃ)援護(えんご)の活動に関わっていった。
16
被爆者(ひばくしゃ)の苦しみ 度重なる入院生活は、人々を経済的(けいざいてき)圧迫(あっぱく)し、治療(ちりょう)もできず重い症状(しょうじょう)(かか)えたまま()らすことも少なくなかった。さらに被爆者(ひばくしゃ)の苦しみが社会に受け入れられず、援助(えんじょ)の手は不足していた。

17
旧軍用地(きゅうぐんようち)に建てられた
簡易住宅(かんいじゅうたく)
1947年(昭和22年)6月 基町(もとまち) 1946年(昭和21年)になると基町(もとまち)旧軍用地(きゅうぐんようち)市営住宅(しえいじゅうたく)建設(けんせつ)され始めたが、資材難(しざいなん)のため戸数も(かぎ)られ、入居(にゅうきょ)できた人はわずかだった。