はじめに

1589年(天正17年)、当時「五ヶ村かそん」などとばれていた地に、毛利もうり輝元てるもと築城ちくじょうを始め、この地を「広島」と命名したといわれています。以来いらい、広島は城下町じょうかまちとしてさかえていきました。明治維新めいじいしん後、広島は、中国・四国地方の政治せいじ経済けいざいの中心として発展はってんし近代化していく中で、ぐん都、学都としての性格せいかくを強めていきました。
広島じょう外堀そとぼりと太田川にかこまれた城郭じょうかく一帯いったいは、「広島開基かいきの地」であるとのことから、もと町とばれるようになりました。明治めいじ時代から昭和初期しょきにかけて、もと町にはぐん施設しせつが次々ともうけられ、ぐん都を象徴しょうちょうする町となっていきました。
1945年(昭和20年)、原子爆弾ばくだんの投下により、爆心ばくしん地に近かったもと町は壊滅かいめつてき被害ひがいを受けます。被爆ひばく後、市の中心にあらわれた広大な土地は性格せいかく一変いっぺんします。家をうしなった人々の住宅じゅうたく地として、また、公園、図書館、市民しみん球場など、人々が集う場所として、広島の復興ふっこうに大きな役割やくわりたしました。
今回の企画きかくてんでは、広島の歴史れきし縮図しゅくずともいえるもと町の、今日までの歩みをたどります。

もと
現在げんざいの地図に江戸えど時代の広島城郭じょうかくを重ねた図です。 1887年(明治めいじ20年)、広島じょう外堀そとぼりと太田川にかこまれた地域ちいきもと町となりました。
現在げんざいもと町より広い範囲はんいでした。
広島城下じょうか大絵図(2007年(平成へいせい19年)3月広島市中区区せい振興しんこう発行)をもと作成さくせい

基町

姿を変える広島開基の地