ぐん都の中心 1

 1871年(明治めいじ4年)、広島じょうの本丸に鎮西ちんぜい鎮台ちんだいの第1分営ぶんえい設置せっちされ、1873年(明治めいじ6年)に第5ぐんかん広島鎮台ちんだい、1886年(明治めいじ19年)には第5師団しだん名称めいしょうえ、広島の軍隊ぐんたい増強ぞうきょうされていきました。歩兵ほへい第11連隊れんたいやさまざまな軍事ぐんじ物資ぶっし輸送ゆそうする輜重しちょうたいなどのしょ部隊ぶたいが次々と編成へんせいされ、もと町はさまざまなぐん関連かんれん施設しせつくされるようになりました。
 まさに、もと町はぐん都広島の中心としての様相をていしていきますが、同時にそこは、市民しみんに楽しみや安らぎをあたえるいこいの場でもありました。

広島鎮台ちんだい司令しれい部本館

1873年(明治めいじ6年)1月、全国が6ぐんかんに分けられ、広島には第5ぐんかん鎮台ちんだいかれました。1877年(明治めいじ10年)、広島鎮台ちんだい司令しれい 部本館が広島じょうの本丸に建設けんせつされました。
明治めいじ時代初期しょき 所蔵しょぞう/広島じょう

広島衛戍えいじゅ病院

1871年(明治めいじ4年)に広島じょう竹の丸にもうけられた鎮台ちんだい病院が前身で、城郭じょうかく内での移転いてんて、1885年(明治めいじ18年)、西の丸に広島衛戍えいじゅ病院として移設いせつされました。
所蔵しょぞう/広島市公文書館


宇品うじな港に停泊ていはくする輸送ゆそう船と出動部隊ぶたいを運ぶ小舟こぶね

しん戦争せんそう当時、宇品うじな港は大陸たいりくへの軍用ぐんよう輸送ゆそう基地きちとなり、多くの兵士へいしがこの港から戦地せんちに向かいました。
提供ていきょう/広島大学大学院文学研究科日本史学しがく研究室

訓練くんれん中の野戦やせん砲兵ほうへい

広島じょう南側みなみがわ、大手くるわにあった西練 へい場での訓練くんれん
1905年(明治めいじ38年)ごろ
所蔵しょぞう/広島じょう


完成かんせいまもない宇品線うじなせん

しん戦争せんそうが始まると、軍隊ぐんたい輸送ゆそうするために、当時山陽鉄道の西端せいたんであった広島駅から宇品うじな港までの軍用ぐんよう鉄道「宇品線うじなせん」がかれました。
提供ていきょう/日本赤十字社

広がる軍用ぐんよう

広島市内の軍用ぐんよう地は、日清にっしん戦争せんそう前は広島しろ城郭じょうかく内や江波えば射撃しゃげき場、東練兵れんぺい場などにかぎられていましたが、日清にっしん日露にちろ戦争せんそうによって大規模きぼに広がりました。陸軍りくぐん運輸うんゆ部、同金輪島かなわじま工場、糧秣りょうまつ被服ひふく兵器へいきの3支廠ししょう似島にのしま検疫けんえき所などが増設ぞうせつされました。これによって軍用ぐんよう面積めんせきはほぼ倍増ばいぞうしました。
出典しゅってん新修しんしゅう広島市第2かん

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基町

姿を変える広島開基の地