再建さいけんからさい開発 2

   火災かさい

もと町ではたびたび火災かさいが発生しました。道路がせまく、消火施設しせつ不十分ふじゅうぶんで、ひとたび火の手が上がると大火災かさいになりました。

もと町の火災かさい発生状況じょうきょう

堤塘ていとうしき・・・防水ぼうすいのため土を高くきずいた土手のこと。堤防ていぼう
もと町地区さい開発事業記念きねんから作成さくせい

火災かさい

149戸がりさいした大火災かさい
1967年(昭和42年)7月27日
所蔵しょぞう/中国新聞社

堤塘ていとうしきの主な火災かさい場所

1966年(昭和41年)ごろの建物たてもの現況げんきょう図に1973年(昭和48年)5月までの主な火災かさい場所をしめしたものです。
広島被爆ひばく40年都市の復興ふっこうから作成さくせい

さい開発へ

もと一帯いったいはもともと中央公園として計画されていましたが、広島市は、一部分を住宅じゅうたく用地に変更へんこうし、老朽ろうきゅう化した住宅じゅうたくの代わりに中層ちゅうそう住宅じゅうたく団地だんち建設けんせつすることとしました。また、公園予定地をその本来の目的もくてき沿って整備せいびしようとしました。
中層ちゅうそう住宅じゅうたく団地だんち建設けんせつは、広島市、広島県、住宅じゅうたく公団こうだんが合同で行い、1,894戸を建設けんせつする予定でした。しかし、公的こうてき住宅じゅうたくえだけでは、老朽ろうきゅう化した不法ふほう住宅じゅうたくを整理することが不可能ふかのうだったため、新たなさい開発が必要ひつようとなりました。
1969年(昭和44年)3月18日、国は「広島市もと町地区」の名称めいしょうもと西側にしがわ一帯いったい改良かいりょう地区に指定し、やく10年間に及ぶおよ もと町地区のさい開発がスタートしました。

もとさい開発計画図

赤い線で囲んかこ でいる区域くいきさい開発の対象たいしょうとなった区域くいきです。
広島被爆ひばく40年都市の復興ふっこうから作成さくせい

もと中層ちゅうそう住宅じゅうたく建替たてかえ計画

住宅じゅうたく団地だんちは南向きに置かお れ、図の右下、南東すみには小学校の用地が確保かくほされていました。
中層ちゅうそう住宅じゅうたく団地だんちは、最終さいしゅうてきに、1956年度(昭和31年度)から1968年度(昭和43年度)までに930戸(市営しえい630戸、県営けんえい300戸)が完成かんせいしました。
もと町地区さい開発事業記念きねんから作成さくせい

もと町地区住民じゅうみん建設省けんせつしょう担当たんとう者との話し合い

建設省けんせつしょう、広島県、広島市の担当たんとう者が相生通りを視察しさつしました。地区住民じゅうみんやく500人が集まり、住宅じゅうたく地区改良かいりょうほう適用てきようしてもと町地区をさい開発することを国、県、市に要請ようせいしました。
1966年(昭和41年)9月28日 所蔵しょぞう/中国新聞社

さい開発が終わって

もと町地区のさい開発は、たんなる老朽ろうきゅう化した住宅じゅうたくえではなく、隣接りんせつする白島の長寿園ちょうじゅえん地区をふくむ、地区全体の土地利用りようを考えた計画でした。
1978年(昭和53年)9月に最後さいご高層こうそうアパートが完成かんせいし、もと町地区さい開発事業が終わりました。もと町地区に建設けんせつされた高層こうそう住宅じゅうたくは2,964戸で、白島の長寿園ちょうじゅえん地区に建設けんせつされた高層こうそう住宅じゅうたくふくめると4,566戸にもなりました。
住宅じゅうたくだけではなく、ショッピングセンターや小学校、幼稚園ようちえん保育ほいく所、その他中央集会所や集会室などもつくられました。また、高層こうそうアパートの屋上には遊歩道や庭園が設けもう られ、市内や瀬戸内海せとないかい景色けしきのぞめるくつろぎの場となりました。

さい開発事業が終了しゅうりょうしたもと

中層ちゅうそうアパートの東側ひがしがわ高層こうそうアパートが完成かんせいし、南側みなみがわには整備せいびの進む中央公園が姿すがた現しあらわ ています。
1978年(昭和53年)9月26日 所蔵しょぞう/中国新聞社

基町

姿を変える広島開基の地