原爆記
八束要さんは、勤務先の兵器部で、近所の家で使う瓦を集めるために一緒に来ていた妻の愛子さん(当時35歳)と四男の嘉忠さん(当時1歳・愛称・タアチャン)とともに被爆しました。
髪を振り乱し、頭から流れる血ですご味を帯びた妻が、はだしで走り寄ってくるなり、「タアチャンがぁ」と泣きながらぐんぐん引っ張っていこうとする。「待て」と一喝したが離さない。
「タア公はどうした」「木にひかれて死んだぁー」と泣きながら駆ける。
嘉忠は後頭部をねむの木に敷かれ、頭蓋骨が文楽の人形を切ったように二つに割れて即死していた。夢中で抱えあげるとまだ軟らかく体温もある。頭の血が腕を伝って流れる。目は少し開き、少し砂をかんだ口から白い乳歯をのぞかせている。・・30分前にここであばれていたこの可愛い末っ子が、ああ、これこそ地獄の子別れだったのだ。・・重大な職責も忘れて不覚の涙が込み上げ、ハラハラと頬を伝った。しかし、私には負傷の兵員を早急に安全地帯に送り出す重い使命がある。とっさに目をつむってタア公を本部裏の大水槽にザブンと投げ込んだ。
その後、兵器部あたりは猛火に包まれます。八束さんは最後の退避者を送りだします。本部の焼け焼跡に腰をおろしてふと大水槽の水面を見ると嘉忠さんが浮かんでいました。
力一杯抱きしめて顔の水をぬぐってやる。・・この1歳の純心な幼児に何の罪があろうか。可愛そうにと思うと涙が止まらない。しかもいかに公務とはいえ、死体に鞭打つごとく水槽に投げたこの愚かな父、どうか許しておくれと誰も見る人のない広場に声をあげて泣いた。タア公、もういっぺん笑っておくれと狂わんばかりに呼んだ。
部下たちと共に同じところで荼毘にふしてやろうと決心し、本部の焼け跡の残火の上に木を集めて積み重ね、その上に板を置き、寝かそうとしたが、決心が鈍ってなかなか離せず時間が過ぎるだけだった。しかし私にはまだ帰って負傷者の収容状況を把握する公務があった。
思い切って板の上に北向きに寝かせ、顔に私のハンカチをかけて南無阿弥陀仏を唱えながら最後の別れを告げた。ハンカチを取って今一度、見納めの顔を拝んだ。
現代かなづかいや新字体の漢字に変えるなど読みやすいように改め、適宜要約しています。
部下の遺品-革財布・メダル・腕時計
中国軍管区兵器部修理所長だった八束要さん(当時43歳)は、基町の兵器部修理所(爆心地から1,250m)で被爆しました。建物の下敷きになりましたが、かすり傷でやけどもありませんでした。しかし、近所の家で使う 瓦を集めに来ていた妻・愛子さん(当時35歳)と四男・嘉忠ちゃん(当時1歳)も同じ場所で被爆し、嘉忠ちゃん は建物の下敷きとなり即死しました。要さんは、我が子の遺体を泣きながら自らの手で火葬しました。
そして、58名もの部下を失った要さんは、毎日修理所の焼け跡で部下の遺骨や遺品を掘り出し、遺族に届けました。
これらは、持ち主が分からず
保管していたものです。
寄贈/八束 要氏