壊滅かいめつ 1

 8月6日午前7時31分に警戒けいかい警報けいほう解除かいじょされ、もと町のかく部隊ぶたいは8時ごろからその日の作業に取りかかっていました。原爆げんばくのさくれつ直後、多くの人はせん光を感じると同時に、爆風ばくふう倒壊とうかいした建物たてもの下敷したじきとなり、あるいは遠くにきとばされていました。中国ぐん管区かんく司令しれい部を中心に、歩兵ほへい砲兵ほうへい輜重しちょうへいかく兵舎へいしゃや、その他陸軍りくぐん病院などの施設しせつ倒壊とうかい炎上えんじょうし、もと町は壊滅かいめつ状態じょうたいとなりました。

広島壊滅かいめつの第一ほうつたえた通信つうしん室の入口

中国ぐん管区かんく司令しれい防空ぼうくう作戦さくせん室の入口付近ふきんです。
比治山ひじやま高等女学校3年生のおかヨシエさん(当時14さい)は、半地下式の防空ぼうくう作戦さくせん室で勤務きんむ中に被爆ひばくしました。かろうじてのこった軍事ぐんじ専用せんよう電話を使って、広島の惨状さんじょうを福山のぐん関係かんけい者に連絡れんらくしました。これが広島の原爆げんばく投下をつたえた「第一ほう」であると言われています。
撮影さつえい/米ぐん

全壊ぜんかいした大本営だいほんえいあと

木造もくぞう大本営だいほんえいあと被爆ひばく により全壊ぜんかいしました。
1945年(昭和20年)8月9日〜12日
撮影さつえい宮武みやたけ はじめ
提供ていきょう/朝日新聞社


被爆ひばく前の大本営だいほんえいあと

正面上部に星章が見えます。
提供ていきょう/広島市郷土きょうど資料館しりょうかん

陸軍りくぐん兵士へいしのズボン

福永ふくなが三二さん(当時43さい)は、中国ぐん管区かんく歩兵ほへい第1補充ほじゅうたい兵舎へいしゃ爆心ばくしん地から1,000m)で被爆ひばくしました。数日後、このズボンを はいたまま家族の元にもどった三二さんの顔は、家族が見ても本人と分からないぐらいふくれていました。
 寄贈きぞう福永ふくなが 三二

大本営だいほんえい星章の台座だいざ

大本営だいほんえい建物たてもの正面にかかげられていた星章の台座だいざです。
弘法こうぼうみつるさんは、被爆ひばくした年の秋、崩壊ほうかいした大本営だいほんえいあとで発見した星章の 台座だいざを持ち帰りました。
寄贈きぞう弘法こうぼう みつる

広島第二陸軍りくぐん病院

被爆ひばくから53年後に体内から摘出てきしゅつされたガラスへん

遠藤えんどう健一けんいちさん(当時25さい)は、チフスの治療ちりょうのため広島第二陸軍りくぐん病院(爆心ばくしん地から1,050m)に入院していた時に被爆ひばくしました。
すさまじい爆風ばくふう寝台しんだいごとき飛ばされ、左大腿だいたい部の深いきずのほか、背中せなかしり等にまどガラスの破片はへんびて、大小数十カ所のきずを負いました。
このガラスへん健一けんいちさんの体内から摘出てきしゅつされたものです。
寄贈きぞう遠藤えんどう 春子

看護婦かんごふ制服せいふく

広島第二陸軍りくぐん病院(爆心ばくしん地から1,050m)で看護婦かんごふをしていた大井おおい松恵まつえさん(当時26さい)が着用していた制服せいふくです。8月5日が夜勤やきんだった松恵まつえさんは、翌朝よくあさ仕事中に被爆ひばくし、倒壊とうかいした建物たてもの下敷したじきになりました。
周りまわ 建物たてものから火の手が上がるなか必死ひっし脱出だっしゅつしましたが、ひどい打撲傷だぼくしょうを負っていました。
寄贈きぞう大井おおい 松恵まつえ

広島陸軍りくぐん幼年ようねん学校

広島陸軍りくぐん幼年ようねん学校

かべだけがのこっています。右側みぎがわおくに見える建物たてものは広島逓信ていしん局です。
1945年(昭和20年)8月下旬げじゅん
撮影さつえい/谷原 好男よしお

かわ脚絆きゃはん

八木みのるさんは、広島陸軍りくぐん幼年ようねん学校内にかれた中国ぐん管区かんく司令しれい部 の経理けいり部(爆心ばくしん地から1,200m)で執務しつむ中に被爆ひばくしました。頭部を強打し、口の中はくだけ、この脚絆きゃはんを着けていたにもかかわらず左足には裂傷れっしょうを負っていました。
 寄贈きぞう/八木 みのる

基町

姿を変える広島開基の地