再建から再開発 1
基町は爆心地に近く、壊滅的な被害を受けました。国有地であった広大な旧軍用地は、戦後は公共用地として計画されました。
基町の東半分に官公庁や病院、学校などが整備される一方で、西半分の大半は公園用地とされました。しかし、原爆により住宅を失った多くの市民のために、公園用地とされた場所は応急的に住宅地とされることになりました。
再建
1946年(昭和21年)1月に広島市は復興局を設置し、各界の代表者や学識経験者など26人によって構成された復興審議会での審議を経て、復興計画を決定しました。
1946年(昭和21年)10月4日に街路網と土地区画整理区域が、同年11月1日に公園の配置が決まり、基町の西側大半は、広大な公園用地として計画されました。
広島復興都市計画・公園配置図
1946年(昭和21年)に決定した復興都市計画図。基町は公園とされています。
寄贈/ジョン・モンゴメリー
急ごしらえの住宅
戦後の住宅不足対策のため、広島市は、当面、基町の公園用地の大半を戦災者向けの住宅建設用地とすることとしました。旧軍用地は戦後、国の管理となっていたため、広島市は国から土地を借り受けました。住宅営団が1946年度(昭和21年度)中に743戸を建設したのをはじめ、市営住宅が1,038戸、県による引揚者住宅が34戸建設されました。1949年(昭和24年)ごろには、合わせて1,815戸の住宅が建設されていました。
基町の公営住宅
1947年(昭和22年)
8月〜10月17日
撮影/菊池 俊吉氏
提供/菊池 徳子氏
住宅営団が建設した743戸のうち「セット」と呼ばれた267戸は、1戸あたり7坪程度で、屋根は鉄板張り、天井を設けない応急的なものでした。
また、広島市が緊急住宅対策として1946年(昭和21年)6月に建設した最初の480戸は、越冬住宅と呼ばれ、屋根は木を薄く削った板で覆われただけのものでした。
基町地区の公的住宅建物分布図
1949年(昭和24年)ごろの合法的に建てられた住宅とその他の建物の分布図です。
広島被爆40年史都市の復興
から作成
不法住宅の建設
公的な住宅を数多く建設しても、原爆により四散していた人々が再び市内に帰ってきたり、外地から人々が引き揚げてきたりしたため、住宅の不足は深刻でした。土地を持たない人々は、やむを得ず河川敷などに住宅を建て始めます。相生橋東詰から三篠橋東詰までの約1.5キロメートルにおよぶ太田川土手沿いに、不法住宅が集中して建てられました。
相生通り
太田川の土手に沿って形成された街は「相生通り」と呼ばれ、幅2〜3メートルの小道の両側にびっしりと住宅が立ち並んでいました。
1967年(昭和42年)8月14日
撮影/佐々木 雄一郎氏 提供/塩浦 雄悟氏
基町の西端、太田川土手沿いに密集するバラック住宅
1962年(昭和37年)7月 所蔵/中国新聞社