おわりに

 原爆(げんばく)による被害(ひがい)の中で、「国民義勇隊(ぎゆうたい)」についてはあまり語られることがありませんでした。それは、国民義勇隊(ぎゆうたい)が、終戦前ににわかに作られた組織(そしき)であったからかもしれません。残された資料(しりょう)が少ないためかもしれません。
 かつて、国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)し、今も広島を(ささ)える事業所にあっても、原爆(げんばく)による被害(ひがい)や戦後の苦難(くなん)を知る人はほとんどいなくなりました。また、被爆(ひばく)50周年を(さかい)に、毎年(いとな)まれていた慰霊(いれい)の式典を取りやめた団体(だんたい)企業(きぎょう)も少なくありません。
 こうした中、(わたし)たちは65年前に広島で起きたことをどのように記憶(きおく)すればよいのでしょう。
 緑豊(みどりゆた)かな「平和大通り」を歩くとき、この広い道路の生い立ちを考えてみませんか。シャキッとした歯触(はざわ)りの「広島菜漬(なづけ)」を食べたとき、広島近郊(ひろしまきんこう)の農家の人々の原爆被害(げんばくひがい)や残された人たちの労苦に思いをはせてみませんか。
 ヒロシマを知る手掛(てが)かりは、今の(わたし)たちの()らしの中にもあると思います。

国民義勇隊(ぎゆうたい)として出動された方、ご遺族(いぞく)
被爆(ひばく)当時に国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)した事業所の関係者、
広島県内自治体の関係者など多くの方々のご協力をいただきました。