職域国民義勇隊
職域国民義勇隊は、官公署、会社、工場、事業所ごとに組織し、職域の長又は責任者が隊長となり、大隊、中隊、小隊が編成されていました。軍需工場などに動員されていた学生たちも職域国民義勇隊の一員となりました。また、職域国民義勇隊と地域国民義勇隊との重複を避けるため、職域義勇隊の隊員名簿が該当の市町村に送付され、地域国民義勇隊から除外するよう依頼されていました。
8月6日の広島市内の建物疎開作業には、38の職域義勇隊から約1万人が動員されていました。
原爆により、広島市街地は廃虚と化し、国民義勇隊に関する資料も焼き尽くされました。戦後に発行された社内報や社史などに原爆による被害の記録は残されていますが、国民義勇隊についての詳しい記述は多くありません。
広島食糧事務所国民義勇隊
職域國民義勇隊員證明書
妹尾治人さん(当時17歳)は、広島食糧事務所の職域国民義勇隊として出動し、爆心地から約1キロメートルの雑魚場町(現在の中区国泰寺町)の建物疎開作業現場で被爆しました。倒れた建物の下敷きになった知人を助けたあと、燃えさかり、負傷者があふれる街をぬけ、南蟹屋町にあった勤務先に帰りつきました。行方不明になった同僚やその家族を捜して、3日間市内を歩き回りましたが、誰も見つけることができませんでした。
寄贈/妹尾治人
広島瓦斯国民義勇隊
かばん
松井福市さん(当時51歳)は、広島瓦斯の職域国民義勇隊として、爆心地から約500メートルの木挽町(現在の中区中島町)の建物疎開作業に出動し被爆死しました。このかばんは遺留品として会社が保管していたもので、裏側に残っていた「松井福市」の名で、福市さんのものと判明しました。妻のタカさん(当時47歳)は、焼け野原の街で帰らぬ夫を懸命に捜し続けましたが、遺骨すら見つかりませんでした。遺品となったこのかばんは、アルミ製の弁当箱を入れていた部分が焼失しています。
寄贈/松井タカ
三菱重工業第20製作所国民義勇隊
腕時計
岡本梢さん(当時20歳)は、三菱重工業第20製作所の職域国民義勇隊として出動し、土橋(または小網町)の建物疎開作業現場で被爆しました。6日午後、同僚に発見され、祇園町にあった会社の寮に運ばれました。梢さんは全身にやけどを負い、この時計のバンドの下の皮膚以外は赤黒く焼けただれ、家族でさえ梢さんと分からないほどでした。駆けつけた母親のミツさん(当時62歳)が懸命に看病しましたが、翌7日午後4時ごろ亡くなりました。
寄贈/岡本房子
内務省中国四国土木出張所国民義勇隊
戦災ニ関スル書類
1945年(昭和20年)8月28日、原子爆弾による被害について、内務省中国四国土木出張所長から、内務大臣に報告されたもの。国民義勇隊として出動した34名について、死亡した22名、行方不明となった10名の状況などが記録されています。
所蔵/国土交通省中国地方整備局