国民義勇隊(ぎゆうたい)被害(ひがい)全容(ぜんよう)

 1945年(昭和20年)8月6日、原爆(げんばく)がさく(れつ)したとき、広島には35万人前後の人々がいたと推定(すいてい)されています。これは、住民、軍関係者、建物疎開(たてものそかい)作業に動員された周辺町村からの人々などで、この中には朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国大陸の出身者なども(ふく)まれます。
 果たして、この中に、当日、国民義勇隊(ぎゆうたい)として出動していた人はどのくらいいたのでしょうか。壊滅(かいめつ)した広島において、出動や被害(ひがい)状況(じょうきょう)などの記録がほとんど残っていないため、その詳細(しょうさい)は不明です。地域(ちいき)職域(しょくいき)の国民義勇隊(ぎゆうたい)を合わせて約5万人が出動し、4万人近くが()くなったとの説もありますが、定かではありません。被爆(ひばく)から65年を(むか)える今日に(いた)るまで、原爆(げんばく)()った一人一人を特定することすらできないことが原爆被害(げんばくひがい)深刻(しんこく)さなのです。

行方不明者を(さが)して歩く

【作者のことばから】
国民義勇隊出動(ぎゆうたいしゅつどう)の行方不明者を(さが)して歩く人、掲示板(けいじばん)を食い入るように見る人、みんなため息をついている。

1945年(昭和20年)8月12日 宇品町(うじなちょう)東部桜土手付近
作者/下谷軍一(当時42(さい)、絵を(えが)いた時72(さい)

戦傷病者(せんしょうびょうしゃ)戦没者(せんぼつしゃ)
遺族(いぞく)援護法(えんごほう)

1952年(昭和27年)、戦傷病者(せんしょうびょうしゃ)戦没者(せんぼつしゃ)遺族(いぞく)援護法(えんごほう)制定(せいてい)されました。この法律(ほうりつ)により、公務上(こうむじょう)、けがをしたり病気になったり、死亡(しぼう)した軍人や軍属(ぐんぞく)あるいはその遺族(いぞく)に、国が年金や弔慰金(ちょういきん)などを支給(しきゅう)することになりました。国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)は「準軍属(じゅんぐんぞく)」とされ、援護(えんご)の対象とされています。
援護(えんご)の対象者を特定するために、各都道府県は、市町村を通じて調査(ちょうさ)を行いました。

地域(ちいき)国民義勇隊(ぎゆうたい)死没者名簿(しぼつしゃめいぼ)職域(しょくいき)国民義勇隊(ぎゆうたい)死没者名簿(しぼつしゃめいぼ)

戦傷病者(せんしょうびょうしゃ)戦没者(せんぼつしゃ)遺族(いぞく)援護法(えんごほう)により、国民義勇隊(ぎゆうたい)として出動して被爆(ひばく)した人は、準軍属(じゅんぐんぞく)とされ、本人やその遺族(いぞく)援護(えんご)の対象とされました。その対象者を特定するために、地域(ちいき)国民義勇隊(ぎゆうたい)死没者名簿(しぼつしゃめいぼ)職域(しょくいき)国民義勇隊(ぎゆうたい)死没者名簿(しぼつしゃめいぼ)が作成されています。
これによれば、1945年(昭和20年)8月6日に出動した国民義勇隊(ぎゆうたい)は、地域(ちいき)職域(しょくいき)を合わせて11,633人となり、そのうち死者が4,632人です。しかし、動員数は確定(かくてい)したものではありません。

所蔵(しょぞう)・協力/広島県社会援護課(えんごか)

国民義勇隊(ぎゆうたい)の動員数と死者数