国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)

 戦時中の日本では、すべての国民が戦争に協力するように、国家総動員法(そうどういんほう)、国民徴用令(ちょうようれい)学徒(がくと)勤労令(きんろうれい)、女子挺身(ていしん)勤労令(きんろうれい)など多くの法令が定められていました。
 そして、1945年(昭和20年)3月23日の閣議(かくぎ)で、「国民義勇隊(ぎゆうたい)組織(そしき)ニ関スル(けん)」が決定され、国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)されることになりました。国民義勇隊(ぎゆうたい)は、当面は生産と防衛(ぼうえい)の一体的強化を(にな)い、情勢(じょうせい)が差し(せま)った場合には武器(ぶき)をとって決起する態勢(たいせい)移行(いこう)するものでした。病弱者や妊産婦(にんさんぷ)(のぞ)き、国民学校初等科(しょとうか)修了(しゅうりょう)以上の男子65(さい )、女子45(さい)までのすべての国民が編成(へんせい)の対象とされました。このころ、(わか)男性(だんせい)は軍隊に召集(しょうしゅう)されていたため、国民義勇隊(ぎゆうたい)は、その多くが40代以上の男性(だんせい)や、女性(じょせい)により組織(そしき)されることになりました。
 広島県は、5月7日付けで、各市町村長(あて)に「国民義勇隊(ぎゆうたい)組織運用(そしきうんよう)ニ関スル(けん)依命通牒(いめいつうちょう)」を発し、5月20日までに国民義勇隊(ぎゆうたい)組織(そしき)するよう指示(しじ)しています。


国民義勇隊(ぎゆうたい)組織運用(そしきうんよう)ニ関スル(けん)依命通牒(いめいつうちょう)

広島県が、1945年(昭和20年)5月7日付けで、各市町村長(あて)に発したもの。
5月20日までに国民義勇隊(ぎゆうたい)組織(そしき)するよう指示(しじ)しています。

所蔵(しょぞう)/広島市公文書館
狩小川村役場文書(かりおがわむらやくばぶんしょ)国民義勇隊一件綴(こくみんぎゆうたいいっけんとじ)」から

広島県国民義勇隊(ぎゆうたい)綱領(こうりょう)

「われらは戦列の一員なり」が繰り返(くりかえ)されています。

所蔵(しょぞう)/広島市公文書館
狩小川村役場文書(かりおがわむらやくばぶんしょ)国民義勇隊一件綴(こくみんぎゆうたいいっけんとじ)」から

広島県における国民義勇隊(ぎゆうたい)組織(そしき)

広島県に国民義勇隊(ぎゆうたい)本部がおかれ、県知事が本部長となり、出動指令を発しました。市町村ごとに、地域国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)され、各市町村長が隊長となりました。また、職域(しょくいき)ごとに、職域(しょくいき)国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)され、職場(しょくば)の長(また)責任者(せきにんしゃ)が隊長とされました。地域(ちいき)職域(しょくいき)の各国民義勇隊(ぎゆうたい)ごとに隊則(たいそく)を定め、組織(そしき)指揮系統(しきけいとう)徹底(てってい)が図られました。

義勇兵役法(ぎゆうへいえきほう)

閣議決定(かくぎけってい)によって国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)された後、1945年(昭和20年)6月には、「義勇兵役法(ぎゆうへいえきほう)」が公布(こうふ)されました。
15(さい)から60(さい)までの男子、17(さい)から40(さい)までの女子が義勇兵役(ぎゆうへいやく)に服し、必要に応(ひつようにおう)じて招集(しょうしゅう)され、国民義勇(ぎゆう)戦闘隊(せんとうたい)編入(へんにゅう)されることが定められています。国民義勇(ぎゆう)戦闘隊(せんとうたい)は、ほとんど編成(へんせい)されることなく終戦を(むか)えました。