建物疎開
激化する都市への空襲に備え、火災の延焼を防ぐため、建物を解体して防火帯を作ることを建物疎開といいます。
広島市でも、1944年(昭和19年)11月に建物疎開が始まりました。1945年(昭和20年)8月には、第六次建物疎開が行われており、国民義勇隊や当時の中学生などが大規模に動員されていました。
建物疎開作業
【作者のことばから】
広島市の中央部、現在の平和大通りは、戦時中、市の防空体制の拠点となり、軍官民協力一致のもとで家屋の取りこわしが急ピッチで行われておりました。
広島への原爆投下は、尊い人の命を数多く虐殺し、そして傷つけました。
1945年(昭和20年)ごろ 竹屋町付近
作者/濱田義雄(当時26歳、絵を描いた時69歳)
おもな建物疎開作業地の動員状況
1988年(昭和63年)3月25日広島県発行 『広島県戦災史』から
国民義勇隊隊員出動指令
1945年(昭和20年)7月28日付けで、佐伯郡連合国民義勇隊長が、廿日市町国民義勇隊長、宮内村国民義勇隊長に、小網町地区の建物疎開作業に出動するよう命じています。
所蔵/廿日市市教育委員会
廿日市町役場文書「国民義勇隊一件」、
宮内村役場文書「宮内村国民義勇隊」から
建物疎開が進む広島市
1945年(昭和20年)7月25日に米軍が撮影した空中写真をもとに作成した鳥観図です。
写真中央部に見える白い部分は、建物疎開により設けられた防火帯です。広島市の中心を東西に貫く現在の平和大通りもその一つです。
建物疎開は原子爆弾に対して無力であっただけでなく、その作業のために広島市内外から市中心部に動員された多くの人たちが被爆しました。
作成/広島平和記念資料館資料調査研究会 竹崎嘉彦