被爆(ひばく)当時12(さい)だった木村秀男(きむらひでお)さんは、草津(くさつ)国民学校高等科の1年生でした。学徒動員により、小網町(こあみちょう)での建物疎開(たてものそかい)作業に向かう途中(とちゅう)に観音町で被爆(ひばく)、大やけどを負いました。壊滅(かいめつ)した広島や、原爆(げんばく)により負傷(ふしょう)死亡(しぼう)した人々の姿(すがた)(わす)れることができませんでした。
 木村さんは、被爆(ひばく)から60年近く()った2002年(平成14年)に、初めて「原爆(げんばく)の絵」を(えが)きました。それ以後、絵や紙芝居(かみしばい)を通して、多くの人たちに被爆体験(ひばくたいけん)を伝えています。

作者:木村秀男(きむらひでお)

1.1945年(昭和20年)8月6日早朝、 草津南町(くさつみなみまち)国民義勇隊(ぎゆうたい)は、建物疎開(たてものそかい)作業のため小網町(こあみまち)に向かいました。

2.午前8時15分、原子爆弾(げんしばくだん)が上空でさく(れつ)し、大音響(だいおんきょう)とともに熱線(ねっせん)爆風(ばくふう)(おそ)いました。

3.熱線で衣類は焼け、大やけどをし、爆風(ばくふう)吹き飛(ふきと)ばされ、助けを求めています。

4.国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)を救い出すため、海上警備(けいび)隊員が漁船で草津港(くさつこう)から小網町(こあみちょう)に向かいました。

5.干潮(かんちょう)のため、船が天満川を上ることができません。海上警備(けいび)隊員は、船を江波(えば)水門につなぎ、歩いて小網町(こあみまち)に向かいました。

6.国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)が助けを求めています。

7.草津(くさつ)から歩いて小網町(こあみまち)に向かった国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)の家族もいました。絵手前の父と子は、水ぶくれの死体の中から、金歯を目印に母親を(さが)そうとしましたが見つかりません。

8.満潮(まんちょう)になったので、海上警備(けいび)隊員は船を小網町(こあみまち)の川土手に着けて負傷(ふしょう)した国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)の救出にあたりました。

9.重傷(じゅうしょう)を負って防空壕(ぼうくうごう)から出られない女性(じょせい)の国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)がいました。

10.負傷者(ふしょうしゃ)を乗せて天満川を下ります。岸辺にはまだ多くの国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)が残っていました。

11.船は、国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)の死体と負傷者(ふしょうしゃ)を乗せ、草津港(くさつこう)に急いで帰っていきます。

12.変わり果てた国民義勇隊員(ぎゆうたいいん)姿(すがた)を見た家族は、混乱(こんらん)して号泣しています。

13.大やけどを負った女性(じょせい)は、泣いて名前を()ぶ家族を前にしても、声を出す気力もなく、瀕死(ひんし)状態(じょうたい)です。

14.母親は子どもたちを()びますが、子どもたちは母親のお化けのような形相に(こわ)がり、近寄(ちかよ)りません。

15.容体(ようだい)が悪くなった母親は子どもたちをそばに()び、最期の話をして()くなりました。子どもたちはいつまでも泣いていました。

16.母親はたんすの引き出しで作られた棺桶(かんおけ)に入れられ、子どもたちは棺桶(かんおけ)()()い、泣きながら見守っていました。