はじめに

 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、日本のほとんどの都市が米軍による 空襲(くうしゅう)を受けていました。政府(せいふ)は、連合国が上陸して日本本土で戦闘(せんとう)が行われることを想定し、これに(そな)えて国民を動員するための組織(そしき)「国民義勇隊(ぎゆうたい)」を編成(へんせい)しました。広島においても、地域(ちいき)職場(しょくば)ごとに国民義勇隊(ぎゆうたい)編成(へんせい)され、その多くは爆撃(ばくげき)による火災(かさい)()え広がるのを(ふせ)ぐために防火帯(ぼうかたい)を作る「建物疎開(たてものそかい)作業」に動員されていました。
 原爆(げんばく)が投下された8月6日も、広島市の中心部で建物疎開(たてものそかい)作業が行われており、市内のみならず、周辺町村からも動員された大勢(おおぜい)の人たちがいちどきに被爆(ひばく)しました。爆撃(ばくげき)による被害拡大(ひがいかくだい)(ふせ)ぐための建物疎開(たてものそかい)作業への動員により、原爆被害(げんばくひがい)が大きくなってしまったのです。原爆(げんばく)が投下された後、隊員の安否(あんぴ)気遣(きづか)って市中心部を(たず)ね歩いた人たちにも残留(ざんりゅう)放射線(ほうしゃせん)(おそ)いかかりました。
 国民義勇隊(ぎゆうたい)被爆(ひばく)に関する企画展(きかくてん)開催(かいさい)に当たり、関係資料(かんけいしりょう)発掘(はっくつ)に努めましたが、残された記録が少ないため、編成(へんせい)過程(かてい)や、被爆(ひばく)当日の動員や被害(ひがい)全容(ぜんよう)をたどることは非常(ひじょう)困難(こんなん)でした。わずかに残されたかつての町や村の役場、企業(きぎょう)の記録、遺族(いぞく)の手記などを通じて、国民義勇隊(ぎゆうたい)被害(ひがい)状況(じょうきょう)、残された人たちの悲しみとその後の苦難(くなん)の歩みの一端(いったん)紹介(しょうかい)したいと思います。


義勇隊(ぎゆうたい)() 広島市中区中島町