川内村国民義勇隊
広島市安佐南区川内地区は爆心地の北約10キロメートルに位置し、漬物で全国的に有名な「広島菜」の産地として知られています。1945年(昭和20年)当時、この辺りは安佐郡川内村で、広島市近郊の野菜の産地でした。
原爆が投下される直前の7月末、川内村国民義勇隊に指令が出されました。広島市の中島新町(現在の平和記念公園辺り)での建物疎開作業と、高田郡八千代町での飛行場整備作業への出動でした。2つの村が合併して川内村となる前の旧温井村の地区が建物疎開作業へ、旧中調子村の地区が飛行場整備作業へと向かうこととなりました。そして、広島市に出動した約200人が原爆により犠牲となったのです。
広島の食を支える
川内村は、広島の食を支える野菜の生産地でした。「佐東大根」や「広島菜」をはじめ多くの品種が栽培されていました。戦時下においては、野菜の栽培も軍の需要に応えなくてはなりません。川内村は、陸軍を抱える広島市のほか海軍のある呉市へも野菜を供給していました。
戦時中 温井八幡神社
出典/佐東地区まちづくり協議会編集 1996年(平成8年)8月発行『想いでの佐東町』
増川光太さん
辞職願
川内村国民義勇隊の隊長は、村長の増川光太さんでした。増川さんは、1945年(昭和20年)8月6日の朝、建物疎開の現場近くの誓願寺(現在の平和記念公園・「祈りの泉」辺り)まで、隊員を先導してきました。隊員たちが現場に到着したことを県庁(現在の加古町)に報告に行ったときに被爆しました。
増川さんは、命からがら川内村に帰りました。爆心地近くで被爆した隊員が全滅した中、生き残った増川さんは、その責任から8月24日、安佐地方事務所宛に「辞職願」を提出しました。
提供/増川光三
白梅会
1949年(昭和24年)2月4日、戦争で夫を失った川内村の女性たちが集い、「白梅会」が誕生しました。彼女たちは、悩みを語り合い、助け合い、時には行楽にも出かけました。
1965年(昭和40年)
提供/高崎雪子
白梅会ノート
1949年(昭和24年)2月4日に「白梅会」が結成されてからの活動記録です。内職のあっせん、講演会の開催、潮干狩りの様子などがつづられています。
所蔵/石瓶美奈子
祈る
野村マサ子さん(当時24歳 写真手前)も、原爆に夫を奪われた一人です。夫の信一さん(当時28歳)は、被爆後、川船に乗せられ、自宅に帰ることはできましたが、苦しみながら、その日の夜に亡くなりました。
夫の死後、生きる気力を失いかけたマサ子さんでしたが、夫のむごい死にざまを思うと、泣いてばかりはいられませんでした。つらく、悲しい暮らしでしたが、生き抜きました。川内には、同じ境遇の女性たちが多く、一人ではなかったことも心の支えとなりました。
毎月6日、野村さんたち川内の遺族は、祈ります。
2010年(平成22年)5月6日 淨行寺
原爆による犠牲者
8月6日、約500人の川内村国民義勇隊が中島地区に出動しました。先発隊は、現場で作業に着手したときに被爆し、約200人が死亡しました。このうち、自宅まで帰りついて息をひきとった人はわずか7人でした。後続隊は、現場に向かう途中で被爆、無傷で帰って来た人もいましたが、後に原爆症に苦しむ人が少なくありませんでした。また、市内中心部に家族を捜しに行った人たちも残留放射線に侵されました。
中島町に建立された「義勇隊の碑」には、180名の死没者の名前が刻まれています。
家族総出の農作業
川内村のほとんどは農家でした。原爆により、同時に80人近い女性が夫を亡くしました。働き手の中心を失い、農業を続けることは並大抵のことではありません。残された妻や子どもたちは、家族総出で朝早くから夜遅くまで働きました。家計を支えるために、進学をあきらめた子どももいました。
1955年(昭和30年)ごろ 川内
出典/佐東地区まちづくり協議会編集 1996年(平成8年)8月発行『想いでの佐東町』