大竹地区国民義勇隊(ぎゆうたい)

 大竹市は広島県の西端(せいたん)に位置する瀬戸内有数(ゆうすう)臨海(りんかい)工業地区です。
 1945年(昭和20年)8月6日、玖波町(くばちょう)、小方村、大竹町の義勇隊(ぎゆうたい)に、広島市の建物疎開(たてものそかい)作業への出動が()り当てられました。
 大竹地区から約1,000人が出動し、玖波隊(くばたい)の約100人、小方隊の約80人はほぼ全滅(ぜんめつ)。大竹隊も約100人が死亡(しぼう)しました。

大竹地区国民義勇隊(ぎゆうたい)の出動・被害(ひがい)状況(じょうきょう)

1970年(昭和45年)3月31日大竹市発行 『大竹市史』から


玖波町(くばちょう)国民義勇隊(ぎゆうたい)第二中隊隊員名簿(めいぼ)

所蔵(しょぞう)/大竹市


黒い雨にうたれたシャツ

若本徳三(わかもととくぞう)さん(当時28(さい))は、8月6日の朝、大竹町国民義勇隊(ぎゆうたい)の後発隊で出動。建物疎開(たてものそかい)作業に向かう途中(とちゅう)、福島町の路上で被爆(ひばく)し、気を失いました。気がつくと、顔や手にやけどを負っており、まわりの隊員たちはほとんどいなくなっていました。避難(ひなん)途中(とちゅう)高須(たかす)辺りで黒い雨にあい、シャツには粘り気(ねばりけ)のあった雨のあとが斑点(はんてん)となって残っています。

寄贈(きぞう)若本徳三(わかもととくぞう)

広島市国民 勇隊(ぎゆうたい)草津(くさつ)大隊

 広島市内の西に位置し、爆心地(ばくしんち)から約5キロメートル(はな)れた草津(くさつ)は、戦前は漁業が中心の町で、海産物の集荷場として栄えていました。戦後、沖合(おきあい)埋め立(うめた)てられ、現在(げんざい)は海に面していません。
 草津地区(くさつちく)の連合町内会からなる広島市国民義勇隊(ぎゆうたい)草津(くさつ)大隊は、草津東町(くさつひがしちょう)草津本町(くさつほんまち)草津南町(くさつみなみまち)草津浜町(くさつはまちょう)庚午南町(こうごみなみまち)庚午町(こうごまち)の6つの中隊で編成(へんせい)されていました。1945年(昭和20年)8月、建物疎開(たてものそかい)作業のために、草津(くさつ)大隊に対して、小網(こあみ)地区(現在(げんざい)の西平和大橋の西辺り)への出動指令があり、8月6日は、草津南町(くさつみなみまち)中隊の約180人が()り当てられました。半数以上が女性(じょせい)でした。




大隊日誌(だいたいにっし)

国民義勇隊(ぎゆうたい)の出動、原爆(げんばく)による被災(ひさい)、そして救出・救援(きゅうえん)状況(じょうきょう)がつづられています。

所蔵(しょぞう)小川榮(おがわさかえ)
寄託(きたく)/広島県立文書館

国民義勇隊(ぎゆうたい)

原爆被害(げんばくひがい)を大きくした
広島市の建物疎開(たてものそかい)

はじめに
 
1.国民義勇隊の編成
 
2.建物疎開
 
3.地域国民義勇隊
■大竹地区国民義勇隊
■広島市国民義勇隊草津大隊
■川内村国民義勇隊
4.紙芝居 国民義勇隊
 
5.職域国民義勇隊
■藤川製鋼所国民義勇隊
■油谷重工国民義勇隊
6.国民義勇隊の被害の全容
 
◆おわりに
 
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