地域国民義勇隊
地域国民義勇隊は、市町村ごとに編成され、市町村長が隊長を務めました。
広島市では、連合町内会ごとに大隊が、町内会ごとに中隊が、その下部に小隊、さらに分隊が編成されていました。
1945年(昭和20年)8月、広島県国民義勇隊本部からの出動指令に基づいて、広島市第六次建物疎開に多数の地域国民義勇隊が動員されていました。8月6日には、広島市に33あった地域義勇隊大隊のうち29大隊の約3万人と市外の地域義勇隊約1万人が建物疎開作業に動員されていました。
モンペ
乙井ヨシコさん(当時28歳)は、地域国民義勇隊として出動し、爆心地から約1キロメートルの雑魚場町(現在の中区国泰寺町)の建物疎開作業現場で被爆、やけどを負いました。宇品神田の自宅に帰りついた後、似島の救護所に収容されますが、2日後の8月8日に亡くなりました。
寄贈/乙井包義
形見となった弁当箱
鷹匠町(現在の中区本川町)で町内会副会長を務めていた西村平次郎さんは、建物疎開作業のため、地域国民義勇隊として町内会員30~40人を引率し、爆心地から約900メートルの県立広島第一中学校(現在の広島国泰寺高校)の校庭に集合したときに被爆しました。ともに出動した妻のイツさんも被爆し、2人とも行方不明のままです。
西村さん夫妻の娘で、祇園に疎開していた八重子さん(当時24歳)は、翌7日に市内に入り両親を捜しましたが遺骨さえも見つからず、この弁当箱だけを大切に持ち帰りました。黒こげになった弁当の中身は、ごぼう、じゃがいも、豆などでした。
寄贈/西村博次
体内から出てきたガラス片
妊娠3カ月の畠中敬恵さん(当時25歳)は、1歳の息子さんを背負い、舟入中町町内会の人たちとともに、地域国民義勇隊として爆心地から約800メートルの西大工町(現在の中区榎町)の建物疎開作業に出動しました。町内会の人たちの気遣いで、みんなの弁当の番をすることになりました。
被爆の瞬間、敬恵さんと息子さんの体には、無数のガラス片が突き刺さりました。敬恵さんは、黒い雨にもうたれ、脱毛・吐血などの放射線による急性障害で生死の境をさまよい、息子さんは被爆後23日目に亡くなりました。
回復した敬恵さんは、1946年(昭和21年)に百合子さんを出産しました。胎内で被爆した百合子さんは小頭症で、日常の生活でも介護が必要でした。「百合子を残しては死ねない」と言い続けた敬恵さんでしたが、1978年(昭和53年)、癌により亡くなりました。このガラス片は、被爆から31年目の1976年(昭和51年)6月に、敬恵さんの左手の甲から皮膚を破って出てきたものです。
寄贈/畠中敬恵