藤川製鋼所(ふじかわせいこうじょ)国民義勇隊(ぎゆうたい)

 大洲町(おおずちょう)現在(げんざい)の南区大州)にあった藤川製鋼所(ふじかわせいこうじょ)は、軍艦(ぐんかん)のスクリューなどを製造(せいぞう)していました。安芸郡府中町にも工場があり、従業員(じゅうぎょういん)のほか広島県松本工業学校(現在(げんざい)の広島県瀬戸内高校(せとうちこうこう))の動員学徒など約600人が働いていました。
 1945年(昭和20年)8月6日、藤川製鋼所(ふじかわせいこうじょ)国民義勇隊(ぎゆうたい)約120名が県庁付近(けんちょうふきん)現在(げんざい)の中区加古町)の建物疎開(たてものそかい)作業に出動し、全滅(ぜんめつ)しました。
 被爆(ひばく)当時の社長、藤川長市(ふじかわひさいち)さんは、従業員(じゅうぎょういん)たちの死を(いた)み、翌年(よくねん)供養塔(くようとう)を建立し、法要を(いとな)むために「久蔵寺(きゅうぞうじ)」を建立しました。

過去帳(かこちょう)

原爆(げんばく)により()くなった藤川製鋼所(ふじかわせいこうじょ)従業員(じゅうぎょういん)や動員学徒たちの名前などが記された「過去帳(かこちょう)」。この過去帳(かこちょう)記載(きさい)されている人たちを追悼(ついとう)するために、久蔵寺(きゅうぞうじ)が建立されました。

所蔵(しょぞう)久蔵寺(きゅうぞうじ)




藤川製鋼所(ふじかわせいこうじょ)供養塔(くようとう)
安芸郡府中町 久蔵寺(きゅうぞうじ)

油谷重工(ゆたにじゅうこう)国民義勇隊(ぎゆうたい)

 安佐郡(あさぐん)祇園町(ぎおんちょう)現在(げんざい)安佐南区(あさみなみく)祇園地区(ぎおんちく))には二つの大きな軍需(ぐんじゅ)工場がありました。そのうちの一つ油谷重工業では、400名以上の動員学徒も加わって、爆弾(ばくだん)などを製造(せいぞう)していました。
 1945年(昭和20年)7月25日、約1,100名の隊員により油谷重工(ゆたにじゅうこう)国民義勇隊(ぎゆうたい)が結成されました。8月初め、爆心地(ばくしんち)から約850メートルの県庁付近(けんちょうふきん)現在(げんざい)の中区加古町)の建物疎開(たてものそかい)に出動を命ぜられました。8月5日には、解体(かいたい)割り当(わりあ)てられた20(けん)のうちの19軒目(けんめ)までを取り壊(とりこわ)し終えましたが、20軒目(けんめ)だけが家の都合で翌日(よくじつ)まで残されることとなりました。8月6日、1(けん)だけの解体(かいたい)のために出動した義勇隊(ぎゆうたい)約160名が全滅(ぜんめつ)しました。

油谷重工(ゆたにじゅうこう)国民義勇隊(ぎゆうたい)慰霊碑(いれいひ)
安佐南区(あさみなみく)祇園(ぎおん)三丁目
コベルコ建機株式会社内




油谷重工(ゆたにじゅうこう)国民義勇隊(ぎゆうたい)
死没者(しぼつしゃ)関係書類(かんけいしょるい)入れ

1962年(昭和37年)、油谷重工の敷地内(しきちない)に建立された国民義勇隊(ぎゆうたい)慰霊碑(いれいひ)(おさ)められていた「死没者(しぼつしゃ)関係書類(かんけいしょるい)入れ」。戦時中の従業員(じゅうぎょういん)や動員学徒たちに関する書類や、原爆(げんばく)による被害(ひがい)の記録などが整理されており、現在(げんざい)は、社屋内に保管(ほかん)されています。

所蔵(しょぞう)/コベルコ建機株式会社

国民義勇隊(ぎゆうたい)

原爆被害(げんばくひがい)を大きくした
広島市の建物疎開(たてものそかい)

はじめに
 
1.国民義勇隊の編成
 
2.建物疎開
 
3.地域国民義勇隊
■大竹地区国民義勇隊
■広島市国民義勇隊草津大隊
■川内村国民義勇隊
4.紙芝居 国民義勇隊
 
5.職域国民義勇隊
■藤川製鋼所国民義勇隊
■油谷重工国民義勇隊
6.国民義勇隊の被害の全容
 
◆おわりに
 
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