きかくてんをみよう
占領終了後(せんりょうしゅうりょうご)被爆(ひばく)調査(ちょうさ)

7年に(およ)占領下(せんりょうか)では、原爆(げんばく)に関するマスコミの報道(ほうどう)はもちろん研究者による研究発表は制限(せいげん)され、研究の自由が(うば)われていました。初期(しょき)調査(ちょうさ)が一通り終了(しゅうりょう)したこともあり、国内の被爆(ひばく)調査(ちょうさ)は低調な状態(じょうたい)となっていました。
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約(こうわじょうやく)発効(はっこう)により連合国の占領(せんりょう)は終り、日本は主権(しゅけん)回復(かいふく)し、研究の制限(せいげん)がなくなりました。
中央の学会や地元広島の医学界では、被爆(ひばく)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)再開(さいかい)されましたが、それにあらたな刺激(しげき)(あた)えたのが、1954(昭和29)年3月のビキニ環礁(かんしょう)におけるアメリカの水爆(すいばく)実験(じっけん)とそれにともなう日本人漁船乗組員の()ばく(第五福竜丸(ふくりゅうまる)事件(じけん))です。
国民が注視(ちゅうし)する中、()(はい)をかぶった乗組員に死者が出ると国内の反核(はんかく)・平和への世論(よろん)急激(きゅうげき)()り上がりを見せます。この事件(じけん)が、核兵器(かくへいき)のますます増大(ぞうだい)する危険(きけん)をあらためて印象づけ、広島・長崎(ながさき)被爆(ひばく)が単なる過去(かこ)の出来事ではないことを鮮明(せんめい)認識(にんしき)させたからです。
この事件(じけん)によって、広島・長崎(ながさき)原爆(げんばく)被害者(ひがいしゃ)実態(じったい)が広く注目を集めるようになり、被爆者(ひばくしゃ)救済(きゅうさい)の運動とともに被爆(ひばく)調査(ちょうさ)(ふたた)組織化(そしきか)活性化(かっせいか)されていきます。

第五福竜丸(ふくりゅうまる)()ばくと広島・長崎(ながさき)への関心の高まり
1954(昭和29)年3月1日アメリカは北太平洋赤道海域(きたたいへいようせきどうかいいき)のマーシャル諸島(しょとう)ビキニ環礁(かんしょう)で広島・長崎級原爆(ながさききゅうげんばく)の1,000倍以上の威力(いりょく)を持つ水爆(すいばく)実験(じっけん)を行いました。
アメリカが設定(せってい)した危険海域(きけんかいいき)の外で操業(そうぎょう)をしていた日本のマグロ漁船「第五福竜丸(ふくりゅうまる)」の23名の乗組員は、実験3~4時間後、放射能(ほうしゃのう)を大量に(ふく)んだ「()(はい)」を浴びました。
(はい)が付着した部分は、やけど状態(じょうたい)になり、頭痛(ずつう)()()歯茎(はぐき)からの出血・脱毛(だつもう)など急性(きゅうせい)放射能(ほうしゃのう)(しょう)原爆症(げんばくしょう))の症状(しょうじょう)(しめ)しました。
医師団(いしだん)組織(そしき)され、乗組員の治療(ちりょう)にあたりましたが、無線長の久保山(くぼやま)愛吉(あいきち)さんが死亡(しぼう)しました。
この事件(じけん)は国民の大きな反響(はんきょう)()び、反核(はんかく)・平和運動が一気に()り上がり、1955(昭和30)年8月の広島における第1回原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)世界(せかい)大会(たいかい)開催(かいさい)につながっていきます。
 
49 保存(ほぞん)されている第五福竜丸(ふくりゅうまる)

広島市原爆(げんばく)障害者(しょうがいしゃ)治療(ちりょう)対策(たいさく)協議会(きょうぎかい)現在(げんざい)の「財団(ざいだん)法人(ほうじん) 広島原爆(げんばく)障害(しょうがい)対策(たいさく)協議会(きょうぎかい)」 )設立(せつりつ)とその活動
(1)原爆(げんばく)障害者(しょうがいしゃ)治療(ちりょう)健康指導(けんこうしどう)(2)研究・治療(ちりょう)に関する行政(ぎょうせい)措置(そち)要請(ようせい)を目的とする「広島市原爆(げんばく)障害者(しょうがいしゃ)治療(ちりょう)対策(たいさく)協議会(きょうぎかい)」が、1953(昭和28)年1月31日に広島市・広島県医師会(いしかい)・広島市医師会(いしかい)により設立(せつりつ)されました(1956(昭和31)年から現在(げんざい)名称(めいしょう))。
当初は、被爆者(ひばくしゃ)を対象とした合同(ごうどう)診察会(しんさつかい)開催(かいさい)し、治療(ちりょう)可能(かのう)な者には費用の大部分を会が負担(ふたん)して治療(ちりょう)を行なっていましたが、1957(昭和32)年「原子(げんし)爆弾(ばくだん)被爆者(ひばくしゃ)医療(いりょう)等に関する法律(ほうりつ)」が成立し国費による被爆者(ひばくしゃ)医療(いりょう)(みと)められてからは、原爆(げんばく)障害者(しょうがいしゃ)検診(けんしん)生活(せいかつ)援護(えんご)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)事業(じぎょう)充実(じゅうじつ)を図っています。
1959(昭和34)年には「第1回原子(げんし)爆弾(ばくだん)後障害(こうしょうがい)研究会(けんきゅうかい)」を開催(かいさい)し、以後、長崎(ながさき)交互(こうご)開催(かいさい)しています。
 
50 現在(げんざい)の「財団(ざいだん)法人(ほうじん) 広島原爆(げんばく)障害(しょうがい)対策(たいさく)協議会(きょうぎかい)

広島大学原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)研究(けんきゅう)現在(げんざい)の「広島大学原爆(げんばく)放射線(ほうしゃせん)医科学(いかがく)研究所(けんきゅうじょ)」)の設立(せつりつ)と活動
広島大学医学部では、第五福竜丸(ふくりゅうまる)()ばくにより放射能(ほうしゃのう)の人体に(およ)ぼす影響(えいきょう)について世間の関心の高まった1954(昭和29)年3月に放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)生物(せいぶつ)研究所の構想(こうそう)が生まれましたが、その実現(じつげん)遅々(ちち)として進みませんでした。
1958(昭和33)年「附属(ふぞく)原子(げんし)放射能(ほうしゃのう)基礎(きそ)医学(いがく)研究(けんきゅう)施設(しせつ)」の一部門として「原子(げんし)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)理論(りろん)部門(ぶもん)」の開設(かいせつ)が、1959(昭和34)年「原子(げんし)放射能(ほうしゃのう)障害(しょうがい)医学(いがく)部門(ぶもん)」が開設(かいせつ)しました。
原爆(げんばく)医療法(いりょうほう)の改正を目標に結成された「広島・長崎(ながさき)原爆(げんばく)被爆者(ひばくしゃ)医療法(いりょうほう)改正(かいせい)対策(たいさく)検討(けんとう)委員会(いいんかい)」は原爆(げんばく)被害者(ひがいしゃ)医学(いがく)総合(そうごう)研究(けんきゅう)機関(きかん)設置(せっち)も運動の目標とし、広島市議会なども陳情(ちんじょう)()(かえ)しました。その結果、広島大学原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)研究(けんきゅう)が1961(昭和36)年4月、原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)による障碍(しょうがい)治療(ちりょう)および予防(よぼう)に関する学理と応用(おうよう)の研究を目的として開設(かいせつ)されました。
1967(昭和42)年6月には附属施設(ふぞくしせつ)として「原爆(げんばく)医学(いがく)標本(ひょうほん)センター」(1974(昭和49)年に「原爆(げんばく)被災(ひさい)学術(がくじゅつ)資料(しりょう)センター」に改称(かいしょう)、1994(平成6)年には「国際(こくさい)放射線(ほうしゃせん)情報(じょうほう)センター」に改組)が設置(せっち)され、主に被爆者(ひばくしゃ)病理(びょうり)標本(ひょうほん)保存(ほぞん)を行なっています。
2002(平成14)年4月に、「広島大学原爆(げんばく)放射線(ほうしゃせん)医科学(いかがく)研究所(けんきゅうじょ)」に改称(かいしょう)されました。
 
51 現在(げんざい)の「広島大学原爆放射線(げんばくほうしゃせん)医科学(せんいかがく)研究所(けんきゅうじょ)」 

ABCC(原子(げんし)爆弾(ばくだん)傷害(しょうがい)害調査(ちょうさ)委員会(いいんかい))から放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)研究所(けんきゅうじょ)
1952(昭和27)年サンフランシスコ講和条約(こうわじょうやく)により日本の主権(しゅけん)回復(かいふく)された後も、ABCCは占領時(せんりょうじ)と変わらない自由な調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)活動(かつどう)確保(かくほ)されていました。
しかしながら、職員(しょくいん)のひんぱんな交代や市民(しみん)感情(かんじょう)の悪化もあり、その調査(ちょうさ)活動(かつどう)停滞(ていたい)してくると、アメリカ学士院・学術(がくじゅつ)会議(かいぎ)は、1955(昭和30)年調査団(ちょうさだん)派遣(はけん)し、調査(ちょうさ)計画(けいかく)全体(ぜんたい)の見直しを行います。
その後、アメリカ側の財政(ざいせい)事情(じじょう)の悪化により経費(けいひ)負担(ふたん)が重荷になったことが直接(ちょくせつ)契機(けいき)となり、組織(そしき)改革(かいかく)日米(にちべい)両国(りょうこく)政府間(せいふかん)で協議され、1975(昭和50)年4月ABCCに()わり「放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)研究所(けんきゅうじょ)(RERF)」が創設(そうせつ)されました。
これにより、経費(けいひ)日米(にちべい)両国(りょうこく)政府(せいふ)折半(せっぱん)するとともに、理事・監事(かんじ)を日米同数とし理事長を交替制(こうたいせい)とすることとなりました。
 
52 現在(げんざい)の「放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)研究所(けんきゅうじょ)」 
  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画社による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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