きかくてんをみよう
占領下(せんりょうか)での被爆(ひばく)調査(ちょうさ)
原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別(とくべつ)委員会(いいんかい)日米(にちべい)合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)

8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木基地(あつぎきち)到着(とうちゃく)すると、アメリカを中心とする連合国の占領(せんりょう)政策(せいさく)本格的(ほんかくてき)に動き出しました。
原子(げんし)爆弾(ばくだん)を開発した研究機関の調査団(ちょうさだん)であるマンハッタン管区(かんく)調査団(ちょうさだん)が広島に入るにあたり、連合国最高司令官総司令部(そうしれいぶ)(GHQ)から日本(にほん)政府(せいふ)調査(ちょうさ)協力(きょうりょく)の指令が出され、日本側の協力を得ながら調査(ちょうさ)を行ないました。
その後、さまざまなアメリカの調査団(ちょうさだん)が広島・長崎(ながさき)調査(ちょうさ)を行ないますが、その過程(かてい)で、日本側が撮影(さつえい)調査(ちょうさ)した写真や記録類の多くがアメリカ側に提出(ていしゅつ)させられます。
このような中、日本学術(がくじゅつ)研究会議により「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別(とくべつ)委員会」が立ち上げられました。これは、当時の日本の主要研究者を網羅(もうら)するものでした。なお、委員会の報告(ほうこく)逐一(ちくいち)アメリカ側に提出(ていしゅつ)させられていました。
また、アメリカ陸・海軍の軍医団(ぐんいだん)と東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)との間で「日米(にちべい)合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)」がつくられ、日米の研究者が協力しながら、被爆(ひばく)調査(ちょうさ)が進められるようになりました。
しかし一方では、アメリカの占領(せんりょう)政策(せいさく)により日本側の調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)活動(かつどう)は自由な発表を止められるなど次第にさまざまな制約(せいやく)を受けます。
これらの制約(せいやく)は、1952(昭和27)年4月のサンフランシスコ講和条約(こうわじょうやく)発効(はっこう)まで続き、その間、日本の研究者による被爆(ひばく)調査(ちょうさ)に関する発表は制限(せいげん)され、調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)活動(かつどう)そのものも停滞(ていたい)していきました。

アメリカ調査団(ちょうさだん)(マンハッタン管区(かんく)調査団(ちょうさだん)(およ)陸海軍軍医団(りくかいぐんぐんいだん))の 調査(ちょうさ)活動(かつどう)
原爆開発(げんばくかいはつ)を行なった機関の調査団(ちょうさだん)であるマンハッタン管区(かんく)調査団(ちょうさだん)とアメリカ太平洋(たいへいよう)陸軍(りくぐん)軍医団(ぐんいだん)調査(ちょうさ)(はん)が合同して原爆(げんばく)(およ)ぼす医学的報告(いがくてきほうこく)を行なうこととなり、ファーレル准将(じゅんしょう)団長(だんちょう)とする約15名からなる調査団(ちょうさだん)を広島に送ることにしました。連合国最高司令官総司令部(そうしれいぶ)(GHQ)は、日本(にほん)政府(せいふ)に対しこの調査(ちょうさ)に協力するように指令を出します。
これを受けて、広島で調査(ちょうさ)活動(かつどう)中であった陸軍本橋(もとはし)少佐(しょうさ)および東京帝国(ていこく)大学(だいがく)都築(つづき)正男(まさお)教授(きょうじゅ)は東京に()(もど)され、調査団(ちょうさだん)に同行・協力することとになります。
調査団(ちょうさだん)は9月7日空路岩国に到着(とうちゃく)(よく)8日に広島に入り、日本軍や行政(ぎょうせい)各機関の協力を得ながら調査(ちょうさ)を行ないました。
9月8日、ファーレル准将(じゅんしょう)一行(いっこう)のグループは、厚木(あつぎ)飛行場から飛行機6機で広島に向かいました。
広島に着いた一行は海軍鎮守府(ちんじゅふ)が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官(そうぐんしれいかん)出迎(でむか)えを受けた後、調査(ちょうさ)を開始します。
一行には、東大都築教授(とうだいつづききょうじゅ)軍医学校(ぐんいがっこう)本橋(もとはし)少佐(しょうさ)などが同行し、(かれ)らを案内するとともに、これまでの日本側の調査(ちょうさ)・研究結果を報告(ほうこく)しました。
この調査団(ちょうさだん)にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍(せんりょうぐん)は15トンに(およ)ぶ医薬品を、博士の要望に(おう)じて提供(ていきょう)しました。
 
33 患者(かんじゃ)診察(しんさつ)するアメリカ調査団(ちょうさだん)と東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)都築(つづき)正男(まさお)教授(きょうじゅ)
広島大野陸軍病院1945(昭和20)年9月11日撮影(さつえい)



34 遺体(いたい)解剖研究(かいぼうけんきゅう)をアメリカ調査団(ちょうさだん)に発表する京都帝国(ていこく)大学(だいがく)調査(ちょうさ)(はん)
広島大野陸軍病院1945(昭和20)年9月11日撮影(さつえい)
原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別(とくべつ)委員会(いいんかい)」の設立(せつりつ)調査(ちょうさ)
文部省は9月14日、原子(げんし)爆弾(ばくだん)被害(ひがい)総合的(そうごうてき)調査(ちょうさ)するため学術(がくじゅつ)研究(けんきゅう)会議(かいぎ)に「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別委員会(とくべついいんかい)」の設置(せっち)を決定し、15日通達「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)(かん)スル(けん)」を出します。
通達によると、広島長崎の実情(じつじょう)を「()が国科学の総力(そうりょく)を挙げて」調査(ちょうさ)し、調査(ちょうさ)性質(せいしつ)については「本調査(ほんちょうさ)研究(けんきゅう)(じゅん)学術的(がくじゅつてき)なもの」であるとしながら、研究成果は「判明(はんめい)次第(しだい)関係方面(かんけいほうめん)に速やかに報告(ほうこく)し」「地方民生の安定に」活用するものとしています。
委員長を学術(がくじゅつ)会議(かいぎ)会長 (はやし)春雄(はるお)()とし、物理・科学・地学、医学など9分科会(ぶんかかい)(もう)け、さまざまな分野の研究者たちが調査(ちょうさ)を行ないました。
最大の分科会は、医学科会であり、委員33名・研究員150名・助手1,500名という規模(きぼ)でした。
その調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)結果(けっか)は、1951(昭和26)年「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)報告書(ほうこくしょ)総括編(そうかつへん)」、1953(昭和28)年「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)報告集(ほうこくしゅう)」第一分冊(ぶんさつ)および第二分冊(ぶんさつ)として日本学術(がくじゅつ)振興会(しんこうかい)から発行されました。
 



35 護国神社(ごこくじんじゃ)前に到着(とうちゃく)し、調査(ちょうさ)に向かう特別委員会(とくべついいんかい)調査団(ちょうさだん) 1945(昭和20)年10月15日撮影(さつえい)
 
36 爆心地(ばくしんち)に近い西蓮寺(さいれんじ)墓地(ぼち)花崗岩(かこうがん)を調べる物理・化学・地学科会(はん)
1945(昭和20)年10月15日撮影(さつえい)
37 爆心地(ばくしんち)付近(ふきん)放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)する物理・化学・地学科会(はん)宮崎(みやざき)友喜雄(ゆきお)池田(いけだ)正雄(まさお)調査員(ちょうさいん)
1945(昭和20)年10月6日撮影(さつえい)
38 広島市信用組合屋上監視哨(かんししょう)猿猴橋町(えんこうばしちょう))の板に焼きついた(かげ)を調べる物理・化学・地学科会(はん)田島(たじま)英三(えいぞう)調査員(ちょうさいん)
1945(昭和20)年9月24日撮影(さつえい) 
39 護国神社付近(ごこくじんじゃふきん)で植物を採取(さいしゅ)してまわる生物学科会(はん)中山(なかやま)弘美(ひろみ)調査員(ちょうさいん)
1945(昭和20)年9月26日撮影(さつえい)
40 爆心地(ばくしんち)のミミズを採取(さいしゅ)する生物学科会(はん)大渕(おおぶち)真龍(しんりゅう)調査員(ちょうさいん)
1945(昭和20)年9月26日撮影(さつえい) 
 
41 相生橋で爆風(ばくふう)影響(えいきょう)調査(ちょうさ)する土木建築(どぼくけんちく)学科会(がっかかい)(はん)の東京帝国(ていこく)大学(だいがく)田中(たなか)教授(きょうじゅ)調査員(ちょうさいん)
1945(昭和20)年10月14日撮影(さつえい)
42 草津国民学校(くさつこくみんがっこう)病理(びょうり)解剖(かいぼう)する医学科班(いがくかはん)の京都帝国(ていこく)大学(だいがく)荒木(あらき)正哉(まさや)医師(いし)
1945(昭和20)年10月13日撮影(さつえい)

日米(にちべい)合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)」の設立(せつりつ)調査(ちょうさ)
9月22日東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)長宮(ながみや)猛雄(たけお)教授(きょうじゅ)らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請(ようせい)しました。
その結果、「日米(にちべい)合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)」(アメリカ側は「合同委員会」と()んでいます)が結成されます。
日本側参加調査団(さんかちょうさだん)のメンバーは、主として都築教授(きょうじゅ)によって選ばれました。東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地(むらち)幸一(こういち)氏、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力しました。
日本とアメリカの調査団(ちょうさだん)からなる合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)の広島(はん)(アメリカ側メイソン大佐(たいさ)以下10名、日本側37名)は10月12日に広島に入り、広島第一陸軍病院宇品(うじな)分院(ぶんいん)本拠(ほんきょ)として調査(ちょうさ)を始めました。
合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)のアメリカ側医師(いし)と日本側医師(いし)は共同で被爆者(ひばくしゃ)検診(けんしん)を行ないました。
アメリカ側の第一次調査(ちょうさ)は、1946(昭和21)年9月に終り、収集(しゅうしゅう)した資料(しりょう)は米国へ持ち帰ります。
この合同調査団(ちょうさだん)調査(ちょうさ)内容(ないよう)については、アメリカ側は合同委員会の報告書(ほうこくしょ)1946(昭和20)年11月「日本における原爆(げんばく)医学的(いがくてき)効果(こうか)」として、日本側は、学術(がくじゅつ)研究(けんきゅう)会議(かいぎ)の「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)報告集(ほうこくしゅう)」の中でそれぞれ報告(ほうこく)しています。
 
43 宇品(うじな)の広島鉄道局仮家屋(かりかおく)で行われている検診(けんしん)
1945(昭和20)年11月7日撮影(さつえい)




44 合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)の研究室グループ

公表を(はば)まれた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)
連合国最高司令官総司令部(そうしれいぶ)(GHQ)は、1945(昭和20)年9月19日に新聞などの刊行物(かんこうぶつ)に関しての取締(とりしま)方針(ほうしん)であるプレスコードを指令します。
これにより、原爆(げんばく)に関する報道(ほうどう)・文学は、「日本の公共の安寧(あんねい)(みだ)す」として検閲(けんえつ)により(きび)しく制限(せいげん)されました。
被爆(ひばく)調査(ちょうさ)に関する研究の発表についても、事前に許可(きょか)をとることが要請(ようせい)されました。
これには、アメリカの原子兵器に関する情報(じょうほう)管理(かんり)が強く影響(えいきょう)していました。
その後、刊行物(かんこうぶつ)に関する事前検閲(けんえつ)などは順次緩和(かんわ)されましたが、プレスコードによるすべての検閲(けんえつ)廃止(はいし)されるのは、昭和27(1952)年の講和(こうわ)条約(じょうやく)発効(はっこう)になってからです。
 
45 都築(つづき)正男(まさお)氏の()せ字の論文(ろんぶん)総合医学(そうごういがく)第2(かん)第14号」
1945(昭和20)年9月8日
伏字(ふせじ)となった部分は、「・・この爆発(ばくはつ)故意(こい)毒瓦斯(どくがす)様物(ようぶつ)を発散するように作られていたかどうかは目下のところ・・・」という内容(ないよう)です


  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画社による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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