きかくてんをみよう
被爆(ひばく)直後から始められた被爆調査(ひばくちょうさ)
混乱(こんらん)の中の初期調査(しょきちょうさ)原爆(げんばく)確認(かくにん)
被爆(ひばく)直後、呉海軍鎮守府(くれかいぐんちんじゅふ)似島陸軍船舶練習部(にのしまりくぐんせんぱくれんしゅうぶ)など広島付近にあった軍の機関が、広島へ救護(きゅうご)に入ると共にいち早く調査活動(ちょうさかつどう)を開始しました。これは、(てき)の新型兵器の威力(いりょく)を明らかにし、その対策(たいさく)(こう)じるために行なわれた軍事的な行動でした。
原爆投下(げんばくとうか)16時間後、アメリカは、原子(げんし)爆弾(ばくだん)を投下したことを世界に向て宣言(せんげん)(トルーマン声明)し、これにより日本政府(にほんせいふ)・軍の幹部(かんぶ)原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることを知るところとなりました。政府(せいふ)大本営(だいほんえい)は、原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることを確認(かくにん)するために日本の原子爆弾開発(げんしばくだんかいはつ)(たずさ)わった関係者を中心とする調査団(ちょうさだん)を急きょ広島へ派遣(はけん)しました。また、陸海軍の各機関も、軍医や大学の研究者らを中心とする調査団(ちょうさだん)を次々と派遣(はけん)しました。
大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)は、8月10日に広島で陸海軍合同検討会(りくかいぐんごうどうけんとうかい)を開き原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることを確認(かくにん)し、すぐさま中央に打電するとともに報告書(ほうこくしょ) を作成します。
これを受けて政府(せいふ)と軍は、海外に向かっては原子(げんし)爆弾(ばくだん)を投下した米国を非難(ひなん)し、国内に対しては原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることを(かく)し戦争を継続(けいぞく)させようとしますが、原子爆弾投下(げんしばくだんとうか)の事実は8月10日の御前会議(ごぜんかいぎ)でのポツダム宣言(せんげん)受諾(じゅだく)の決定、15日の終戦の勅書(ちょくしょ)につながっていきます。
しかしながら、国民に対し原爆投下(げんばくとうか)の事実を公表したのは終戦の前日の8月14日になってからでした。
一方、広島に入った調査団(ちょうさだん)の多くは、原子(げんし)爆弾(ばくだん)であると判明(はんめい)した後も調査(ちょうさ)継続(けいぞく)していきます。

海軍呉鎮守府調査(かいぐんくれちんじゅふちょうさ)調査活動(ちょうさかつどう)
鎮守府(ちんじゅふ)とは、旧日本海軍(きゅうにほんかいぐん)で各海軍区の警備(けいび)所属(しょぞく)部隊(ぶたい)監督(かんとく)などを担当(たんとう)した機関です。呉海軍鎮守府(くれかいぐんちんじゅふ)は、その管轄下(かんかつか)戦艦大和(せんかんやまと)などを建造(けんぞう)した呉工廠(くれこうしょう)があり、多数の技官(ぎかん)(よう)していました。
被爆後(ひばくご)直ちに救護(きゅうご)に向かうと共に、調査班(ちょうさはん)組織(そしき)被爆(ひばく)当時の午後から(よく)7日にかけて調査(ちょうさ)を行ない、その夜には陸海軍を通じて最も早い報告書(ほうこくしょ)と思われる「呉工廠(くれこうしょう)電気実験部長(じっけんぶちょう)爆弾(ばくだん)調査(ちょうさ)につき意見具申書(ぐしんしょ)」を作成します。
さらに、8日には大本営海軍(だいほんえいかいぐん)調査団(ちょうさだん)とともに調査(ちょうさ)を続け、「呉鎮守府(くれちんじゅふ)司令部(しれいぶ)広島空襲(くうしゅう)被害(ひがい)状況(ひがい)報告書(ほうこくしょ)」を作成しました。これは、熱線によるやけどなど原爆(げんばく)特徴(とくちょう)をよくとらえ、(すで)につかんでいたトルーマン声明の情報(じょうほう)(あわ)せてほぼ原爆(げんばく)断定(だんてい)しています。独自(どくじ)推定(すいてい)した爆心地(ばくしんち)・高度も、その後の他の調査(ちょうさ)比較(ひかく)してもおおむね正確(せいかく)です。
このように、呉海軍鎮守府(くれかいぐんちんじゅふ)調査(ちょうさ)優秀(ゆうしゅう)技官(ぎかん)による科学的に水準(すいじゅん)の高いものでした。

 
13 「呉工廠(くれこうしょう)電気実験部長(じっけんぶちょう)爆弾(ばくだん)調査(ちょうさ)につき意見具申書(ぐしんしょ)
1945(昭和20)年8月7日付



14  「呉鎮守府(くれちんじゅふ)司令部(しれいぶ)広島空襲(くうしゅう)被害(ひがい)状況(ひがい)報告書(ほうこくしょ)
1945(昭和20)年8月8日付
陸軍船舶練習部(りくぐんせんぱくれんしゅうぶ)調査活動(ちょうさかつどう)
船舶練習部(せんぱくれんしゅうぶ)とは、本来上陸用舟艇(しゅうてい)などの乗組員の教育・訓練などを管轄(かんかつ)するところですが、当時主力となっていた教育隊は、本土決戦に(そな)え小型船に爆弾(ばくだん)を積んだ特攻兵器(とっこうへいき)の訓練を行なっていました。
紡績工場(ぼうせきこうじょう)であったこの施設(しせつ)は、爆心地(ばくしんち)から4kmの宇品町(うじなちょう)(南区宇品(うじな)東五丁目)にあり被害(ひがい)比較的(ひかくてき)軽微(けいび)であったため被爆後(ひばくご)次々と負傷者(ふしょうしゃ)到着(とうちゃく)し、そのまま病院として使われたり、その後の調査団(ちょうさだん)活動拠点(かつどうきょてん)にもなりました。
8日付の「陸軍船舶練習部(りくぐんせんぱくれんしゅうぶ) 広島爆撃(ばくげき)に関する資料(しりょう)」は、聴取(ちょうしゅ)した体験談を(もと)にかかれており、調査(ちょうさ)としては初歩的といえるものですが作成時期が早く資料的(しりょうてき)価値(かち)は大きいといえます。爆弾(ばくだん)威力(いりょく)は極めて大きいが、対策(たいさく)(こう)準備(じゅんび)をしていれば(おそ)れるに足りないとしています。

アメリカの原子爆弾使用(げんしばくだんしよう)の公表
原爆投下(げんばくとうか)16時間後、アメリカは大統領(だいとうりょう)自らの肉声で、広島に投下したのは原子(げんし)爆弾(ばくだん)であり、日本はポツダム宣言(せんげん)受諾(じゅだく)するようにとの声明(トルーマン声明)を世界に向けて発表ました。 これはすぐさま翻訳(ほんやく)されて政府(せいふ)軍上層部(ぐんじょうそうぶ)の知るところとなります。
 
15 「陸軍船舶練習部(りくぐんせんぱくれんしゅうぶ) 広島爆撃(ばくげき)に関する資料(しりょう)
1945(昭和20)年8月8日付



16 同盟通信社(どうめいつうしんしゃ)発行(はっこう) 敵性(てきせい)情報(じょうほう)(トルーマン声明)
1945(昭和20)年8月10日付



原子爆弾確認(げんしばくだんかくにん)のための大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)派遣(はけん)
トルーマン声明を知った大本営(だいほんえい)は、原爆(げんばく)であるかどうかを確認(かくにん)するために急きょ、調査団(ちょうさだん)を広島に派遣(はけん)します。
調査団(ちょうさだん)は、参謀本部第二部長(さんぼうほんぶだいにぶちょう)有末(ありすえ)清三(せいぞう)中将(ちゅうじょう)団長(だんちょう)とし、原爆(げんばく)研究(けんきゅう)「二号研究」に(たずさ)わっていた技術(ぎじゅつ)将校(しょうこう)らと物理学者の理化学研究所の仁科(にしな)芳雄(よしお)氏ら総勢(そうぜい)9名で構成(こうせい)されていました。
8月8日に軍用機で吉島(よしじま)飛行場(ひこうじょう)到着(とうちゃく)。市内軍施設(ぐんしせつ)を中心に調査(ちょうさ)を行なうとともにそれまでの各機関の調査(ちょうさ)報告(ほうこく)を受けます。
これを()まえ、10日に陸海軍(りくかいぐん)合同検討会(けんとうかい)開催(かいさい)し、席上で原子(げんし)爆弾(ばくだん)であるとの結論(けつろん) を出しました。
 
17 陸軍省(りくぐんしょう)広島災害調査班(さいがいちょうさはん)速報(そくほう)第四号(電報(でんぽう)
1945(昭和20)年8月9日付



18 「大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)主催(しゅさい)合同検討会(けんとうかい)」 草稿(そうこう)
1945(昭和20)年8月7日付
原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)ム」



19 仁科(にしな)芳雄(よしお)送付(そうふ)(すな)など試料


20 仁科(にしな)芳雄(よしお)送付(そうふ)試料(しりょう)から放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)したことが記されている木村(きむら)一治(もとはる)日記
  陸軍省(りくぐんしょう)広島災害(さいがい)調査班(ちょうさはん)派遣(はけん)
陸軍軍医学校の教官を中心とする陸軍省(りくぐんしょう)広島災害(さいがい)調査班(ちょうさはん)は、大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)と同じ飛行機で広島に入り、8月9日市内空襲(くうしゅう)被害(ひがい)病院(びょういん)収容(しゅうよう)患者(かんじゃ)状態(じょうたい)視察(しさつ)しました。
途中(とちゅう)、日赤のレントゲンフィルムが感光していたことを知り、放射能(ほうしゃのう)調査(ちょうさ)の必要を(みと)めた調査班(ちょうさはん)は、8月9日付け速報(そくほう)第四号において、放射線(ほうしゃせん)関係(かんけい)の教官を派遣(はけん)するよう電報(でんぽう)を打ちます。

大本営調査団主催合同検討会(だいほんえいちょうさだんしゅさいごうどうけんとうかい)
被爆(ひばく)による火災(かさい)(まぬが)れた広島陸軍兵器(りくぐんへいき)補給廠(ほきゅうしょう)で、8月10日10時から大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)主催(しゅさい)陸海軍(りくかいぐん)合同検討会(けんとうかい)開催(かいさい)されました。
第二総軍(そうぐん)船舶(せんぱく)司令部(しれいぶ)呉鎮守府(くれちんじゅふ)などから報告(ほうこく)持ち寄(もちよ)られ、その時点までに調査(ちょうさ)した被害(ひがい)状況(ひがい)検討(けんとう)されました。
これまでの軍各機関による調査結果(ちょうさけっか)やレントゲンフィルム感光の事実などから、この検討会(けんとうかい)の席上で原爆(げんばく)であるとの結論(けつろん)が出されました。
合同検討会(けんとうかい)での報告案(ほうこくあん)を作成したのは大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)新妻(にいづま)中佐(ちゅうさ)でした。鉛筆書(えんぴつが)きの草案にははっきりと「原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)ム」とあります。
結果は、すぐさま中央に電報(でんぽう)報告(ほうこく)され、原子(げんし)爆弾(ばくだん)投下(とうか)の事実は8月10日の御前会議(ごぜんかいぎ)でのポツダム宣言(せんげん)受諾(じゅだく)の決定、15日の終戦の勅書(ちょくしょ)につながっていきます。

理化学研究所 仁科(にしな)芳雄(よしお)氏の調査(ちょうさ)による放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)
大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)に同行した理化学(りかがく)研究所(けんきゅうじょ)仁科(にしな)芳雄(よしお)氏の指示(しじ)で8月9日に市内28か所で(すな)銅線(どうせん)採取(さいしゅ)され(現在(げんざい)残るのは26か所分)、放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)のために空路理化学(りかがく)研究所(けんきゅうじょ)に送られました。
8月10日夕方、理化学研究所の研究者・木村(きむら)一治(もとはる)氏により、送られた試料の銅線(どうせん)から放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)されました。
これは、原子(げんし)爆弾(ばくだん)核分裂(かくぶんれつ)により発生する中性子(ちゅうせいし)がこれらの試料に当たり、その中の(どう)放射化(ほうしゃか)していたことを(しめ)しています。まさに、広島に投下された爆弾(ばくだん)は、原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることが科学的に明らかになったのです。
木村(きむら)一治(もとはる)氏の日記には、「翌日(よくじつ)再度(さいど)測定(そくてい)すると、(その短い半減期(はんげんき)により)測定(そくてい)不可能(ふかのう)になっていた」とあります。 この測定(そくてい)が、最も早い時期の放射線(ほうしゃせん)科学的(かがくてき)測定(そくてい)であると思われます。
  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆調査(ひばくちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画社による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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