きかくてんをみよう
(イントロダクション)被爆(ひばく)前夜
-日本の原子物理・放射線(ほうしゃせん)の研究状況(じょうきょう)

1938(昭和13)年ドイツ人のオットー・ハーンらによる原子核分裂(げんしかくぶんれつ)の発見は、世界中の物理学者にたいへんな反響(はんきょう)()()こしました。強固なはずの原子が分裂(ぶんれつ)するはずはないと思われていたからです。原子核物理(げんしかくぶつり)の分野では競うように研究が進められ、新たな発見が続きました。
さらに、核分裂反応(かくぶんれつはんのう)では、巨大(きょだい)なエネルギーが発生します。これを軍事に利用することができれば、人類がこれまで手にしたことがない強力な兵器を(つく)ることが可能(かのう)となったのです。
近づく大戦を前に、アメリカのみならず、イギリス・ドイツ・日本の列強諸国(れっきょうしょこく)規模(きぼ)(ちが)いはあるものの原子(げんし)爆弾(ばくだん)の研究にとりかかります。
国家的なプロジェクトで(いど)んだアメリカは、オットー・ハーンらの原子核分裂(げんしかくぶんれつ)の発見から(わず)か7年後の1945(昭和20)年7月、史上初の原子(げんし)爆弾(ばくだん)の実験を成功させます。
日本の原子爆弾開発(げんしばくだんかいはつ)は、陸・海軍によって各々進められましたが、結局何の具体的成果をあげることもなく終戦を(むか)えました。
しかし、被爆後(ひばくご)被爆(ひばく)調査(ちょうさ)に参加した研究者たちは、これまで実験室や論文(ろんぶん)の世界だけだった原子力の威力(いりょく)を、広島の地で実際(じっさい)に目の当たりにすることなったのです。

世界の原子物理の研究状況(じょうきょう)
オットーハーンらの原子核分裂(げんしかくぶんれつ)の発見

1932(昭和7)年に中性子(ちゅうせいし)が発見されると、フェルミは一番重い元素(げんそ)のウランに中性子(ちゅうせいし)を当てると吸収(きゅうしゅう)されてより重い新たな元素(げんそ)(ちょう)ウラン)ができるだろうと予測(よそく)しました。
(ぎゃく)にオットー・ハーンは、中性子(ちゅうせいし)によってウランの原子核(げんしかく)の一部が(はじ)き飛ばされてウランより軽いラジウムができるのではないかと考えて実験を()(かえ)しましたが、出来ていたのは重さが約半分のバリウムでした。
この連絡(れんらく)を受けたオーストリア出身リーゼ・マイトナーは、これはウランの原子核(げんしかく)がほぼ半分に()れた(核分裂(かくぶんれつ))と考えました。また、その反応(はんのう)の前後の質量(しつりょう)の変化からこれまでの化学反応(かがくはんのう)とは桁違(けたちが)いのエネルギー(一億倍!)を発生すると結論(けつろん)づけました。
その後、分裂(ぶんれつ)する時に出る中性子線(ちゅうせいしせん)が他のウランにあたり、さらに核分裂(かくぶんれつ)が進む(核分裂連鎖反応(かくぶんれつれんさはんのう)可能性(かのうせい)のあることが多くの科学者によって考えられました。
核分裂連鎖反応(かくぶんれつれんさはんのう)は、1942(昭和17)年シカゴ大学での世界最初の実験用原子炉(じっけんようげんしろ)実証(じっしょう)され、原爆(げんばく)の開発が実現性(じつげんせい)を帯びてきました。
 


4 オットー・ハーン(右)とリーゼ・マイトナー(左)  1913(大正2)年撮影(さつえい)
日本の原子物理・放射線(ほうしゃせん)の研究状況(じょうきょう)
戦前の原子物理学をリードした理化学研究所

理化学研究所は、1917(大正6)年科学技術(かがくぎじゅつ)発展(はってん)を通して日本の産業発展(さんぎょうはってん)貢献(こうけん)することを目的に設立(せつりつ)され、日本初のサイクロトロンを完成させて世界で最先端(さいせんたん)の研究を行い、戦前の日本の原子物理学研究の中心的存在(そんざい)でした。
サイクロトロンとは、原子核(げんしかく)磁場(じば)の中で回転させながら加速する装置(そうち)です。新しい元素(げんそ)(つく)ろうとしたり、有用な放射性物質(ほうしゃせいぶっしつ)を生成する研究が(さか)んに行なわれていました。
理化学研究所における原子物理学研究の中心となったのは、仁科研究室(にしなけんきゅうしつ)でした。主任研究員(しゅにんけんきゅういん)仁科(にしな)芳雄(よしお)()は、1928(昭和3)年に帰国するまで当時原子物理学研究では世界的権威(せかいてきけんい)であったコペンハーゲン大学ボーア研究室に在籍(ざいせき)し、世界のトップレベルの研究者たちと最先端(さいせんたん)の研究を行なっていました。

陸・海軍による原子(げんし)爆弾(ばくだん)の研究
海軍は、1942(昭和17)年、「核物理応用研究委員会(かくぶつりおうようけんきゅういいんかい)」を発足させますが、「今度の戦争中にはアメリカでも原子(げんし)爆弾(ばくだん)実現(じつげん)することは困難(こんなん)」との結論(けつろん)を出し1943(昭和18)年に解散(かいさん)しました。
陸軍は、1939(昭和14)年に内部検討(ないぶけんとう)を始め、1941(昭和16)年4月陸軍航空技術研究所(りくぐんこうくうぎじゅつけんきゅうじょ)原爆開発(げんばくかいはつ)を理化学研究所に依頼(いらい)。1943(昭和18)年の初めから「ニ号研究」として熱拡散法(ねつかくさんほう)による濃縮(のうしゅく)ウランを(つく)る具体的な研究を開始しました。
しかし、日本の原子(げんし)爆弾(ばくだん)の研究はいずれも何の成果も挙げられないまま終戦を(むか)えます。
 

5 日本初の理化学研究所サイクロトロン
1937(昭和12)年撮影(さつえい)




6 二号研究(原子(げんし)爆弾(ばくだん)開発(かいはつ))の進行(しんこう)状況(じょうきょう)報告書(ほうこくしょ)
1944(昭和19)年2月2日付


  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画社による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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