きかくてんをみよう
占領下(せんりょうか)での被爆(ひばく)調査(ちょうさ)
日本(にほん)映画社(えいがしゃ)による原子(げんし)爆弾(ばくだん)記録(きろく)映画(えいが)制作(せいさく)

日本(にほん)映画社(えいがしゃ)は、戦時ニュースや戦意高揚(せんいこうよう)を図るための映画作品(えいがさくひん)製作(せいさく)するために設立(せつりつ)された国策会社(こくさくがいしゃ)でした。
原爆(げんばく)投下(とうか)直後から、社内では、原爆(げんばく)被災(ひさい)のようすを記録する映画(えいが)製作(せいさく)企画(きかく)が持ち上がっていました。
日本(にほん)映画社(えいがしゃ)の関係者や理化学研究所の仁科(にしな)芳雄(よしお)()らの働きかけで、「原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)特別(とくべつ)委員会(いいんかい)」の調査(ちょうさ)活動(かつどう)一環(いっかん)として映画(えいが)製作(せいさく)することが(みと)められ、専門家(せんもんか)指導(しどう)を受けながら9月下旬(げじゅん)からスタッフが広島に入り撮影(さつえい)を開始しました。映画(えいが)製作(せいさく)に当たっては当初から被爆(ひばく)実態(じったい)を客観的に科学的に記録しようとする姿勢(しせい)(つらぬ)かれていました。
関係者の懸命(けんめい)な努力で映画(えいが)製作(せいさく)が進められていきましたが、長崎(ながさき)撮影(さつえい)現場(げんば)突然(とつぜん)、GHQ憲兵(けんぺい)撮影(さつえい)中止(ちゅうし)を命ぜられます。
アメリカ側と交渉(こうしょう)の結果、空襲(くうしゅう)効果(こうか)を調べる目的で来日し調査(ちょうさ)活動(かつどう)を行なっていたアメリカ戦略(せんりゃく)爆撃(ばくげき)調査団(ちょうさだん)(USSBS)の委嘱(いしょく)を受ける形で製作(せいさく)継続(けいぞく)できることとなり、この監督(かんとく)の下で製作(せいさく)を続けました。
1951(昭和26)年4月、英語版(えいごばん)の「 EFFECTS OF THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI(広島・長崎(ながさき)における原子(げんし)爆弾(ばくだん)影響(えいきょう))」という作品が完成し、アメリカ側に納品(のうひん)しますが、さらに、すべての資料(しりょう)提出(ていしゅつ)を命ぜられ、写真・フィルムなどことごとくアメリカに持ち帰られます。
しかし、一部の関係者が(ひそ)かにフィルムの複製(ふくせい)の一部を保存(ほぞん)していました。アメリカから作品が返還(へんかん)されたのは、製作(せいさく)から21年も()った1967(昭和42)年のことでした。

上映(じょうえい)
「広島・長崎(ながさき)における原子(げんし)爆弾(ばくだん)効果(こうか)」(広島(へん))・日本語版(にほんごばん)ビデオ
アメリカに持ち帰られていた記録(きろく)映画(えいが)が1967(昭和42)年ころに機密(きみつ)解除(かいじょ)され、以来、アメリカ国立公文書館で保管(ほかん)されて一般(いっぱん)に公開されていました。
会場で上映(じょうえい)しておりますこのビデオは、「平和博物館を(つく)る会」の前身の「子どもたちを世界に!被爆(ひばく)の記録を(おく)る会」が昭和56(1981)年この複写(ふくしゃ)フィルムを入手し、1996(平成8)年に英語の解説(かいせつ)を日本語に(やく)して吹替(ふきか)えて日本語版(にほんごばん)として製作(せいさく)したものです。 会場では、広島(へん)のみを上映(じょうえい)しています。
 
46 日本(にほん)映画社(えいがしゃ)撮影(さつえい)風景(ふうけい)
1945(昭和20)年9月
爆心地(ばくしんち)の細工町で残留(ざんりゅう)放射能(ほうしゃのう)測定中(そくていちゅう)の理化学研究所研究員らの様子を撮影(さつえい)する日本(にほん)映画社(えいがしゃ)のスタッフ 

「ABCC」(原子(げんし)爆弾(ばくだん)傷害(しょうがい)調査(ちょうさ)委員会(いいんかい))の設立(せつりつ)とその調査(ちょうさ)
日米(にちべい)合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)およびアメリカ戦略(せんりゃく)爆撃(ばくげき)調査団(ちょうさだん)が入手した資料(しりょう)解析(かいせき)がすすむにしたがい、アメリカの関係者の間には、日本における原子(げんし)爆弾(ばくだん)の人体への影響(えいきょう)についての調査(ちょうさ)をさらに継続(けいぞく)してすすめる必要性(ひつようせい)(みと)められるようになりました。
1946(昭和21)年11月18日、海軍長官ジェームス・フォレスタルがトルーマン大統領(だいとうりょう)原子(げんし)爆弾(ばくだん)傷害(しょうがい)後遺症(こういしょう)継続(けいぞく)調査(ちょうさ)するよう勧告(かんこく)し、11月26日同大統領(どうだいとうりょう)はこの勧告(かんこく)承認(しょうにん)し、全米科学アカデミー(NAS)、アメリカ学士院・学術(がくじゅつ会議(かいぎ)(NRC)に対して原子(げんし)爆弾(ばくだん)傷害(しょうがい)に関する委員会(CAC)の設置(せっち)を指令しました。原子(げんし)爆弾(ばくだん)傷害(しょうがい)調査(ちょうさ)委員会(いいんかい)(ABCC)は、CACの日本での現地(げんち)調査(ちょうさ)機関(きかん)として設立(せつりつ)されました。ABCCは日本での調査(ちょうさ)活動(かつどう)実施(じっし)(そな)え直ちに調査団(ちょうさだん)派遣(はけん)し、調査(ちょうさ)を開始します。
これに対して、厚生省(こうせいしょう)は1947(昭和22)年5月21日に東京帝国(ていこく)大学(だいがく)伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうじょ)から分離(ぶんり)独立(どくりつ)させた予防(よぼう)衛生(えいせい)研究所(けんきゅうじょ)設置(せっち)し、協力(きょうりょく)体制(たいせい)を整えます。
1948(昭和23)年10月31日ABCC呉研究所(くれけんきゅうじょ)が完成。次いで1949(昭和24)年7月14日宇品町(うじなちょう)凱旋館(がいせんかん)にABCC広島研究所(けんきゅうじょ)臨時(りんじ)施設(しせつ)開設(かいせつ)し、本格的(ほんかくてき)調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)活動(かつどう)を開始しました。

47 広島市役所でのABCC調査団(ちょうさだん)と日本側関係者
1946(昭和21)年12月6日撮影(さつえい)
48 ABCC呉研究所(くれけんきゅうじょ)の外観
  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画社による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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