きかくてんをみよう
終戦の混乱(こんらん)の中でも続けられる被爆(ひばく)調査(ちょうさ)

8月15日の終戦を(むか)えても、軍の機関や、軍からの要請(ようせい)を受けて広島に入った大学などの研究者は、引き続き調査(ちょうさ)活動(かつどう)を続けました。
終戦前後の広島は、宇品(うじな)など一部を(のぞ)いてほぼ全市(ぜんし)壊滅(かいめつ)状態(じょうたい)であり電気・水道も復旧(ふっきゅう)しておらず、調査(ちょうさ)のための機材はもとより、調査員(ちょうさいん)食糧(しょくりょう)宿泊所(しゅくはくじょ)確保(かくほ)すらままならない状態(じょうたい)でした。これに加え、終戦という社会体制(しゃかいたいせい)の大きな変化は、日本人すべてにこれまで経験(けいけん)したことがないような不安を(あた)えていました。
そうした状況(じょうきょう)の中での調査(ちょうさ)活動(かつどう)は、物質的(ぶっしつてき)にも精神的(せいしんてき)にも困難(こんなん)を極めたものとなりました。
しかし、各調査団(かくちょうさだん)はその目的を達するために黙々(もくもく)と、そして、懸命(けんめい)調査(ちょうさ)を続けていきます。
そうした(かれ)らの努力によって、貴重(きちょう)な多くの資料(しりょう)・データが残されました。

陸軍省(りくぐんしょう)広島災害(さいがい)調査(ちょうさ)(はん)調査(ちょうさ)
大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)とともに広島に入った陸軍軍医学校の軍医を中心とする陸軍省広島災害(さいがい)調査(ちょうさ)(はん)(以後、第1次調査(ちょうさ)(はん)といいます)の山科(やましな)(きよし)軍医(ぐんい)少佐(しょうさ)は、原爆(げんばく)被災者(ひさいしゃ)が運ばれている似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)で8月10日から14日にかけて12例の病理解剖(びょうりかいぼう)を行いました。
10日の解剖(かいぼう)は、原爆(げんばく)被災者(ひさいしゃ)に対する最も早い時期の解剖(かいぼう)であり、これら一連の解剖(かいぼう)(れい)は、急性(きゅうせい)原爆症(げんばくしょう)症例(しょうれい)を知る貴重(きちょう)資料(しりょう)となっています。この時の病理(びょうり)標本(ひょうほん)の多くは、アメリカに接収(せっしゅう)されていましたが、1973(昭和48)年にAFIP(アメリカ陸軍病理学研究所)からその一部が返還(へんかん)されました。
陸軍軍医学校は、8月9日付調査(ちょうさ)(はん)からの放射線(ほうしゃせん)専門家(せんもんか)派遣(はけん)要請(ようせい)(こた)え、陸軍軍医学校レントゲン教官(きょうかん)御園生(みそのう)圭輔(けいすけ)軍医(ぐんい)と理化学研究所の研究者(玉木(たまき)英彦(ひでひこ)村地(むらち)孝一(こういち)木村(きむら)一治(もとはる)の各氏)らを放射線(ほうしゃせん)調査(ちょうさ)のために派遣(はけん)します(以後、第2次調査(ちょうさ)(はん)といいます)。
14日に広島に到着(とうちゃく)した第2次調査(ちょうさ)(はん)は、18日まで似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)での遺体(いたい)(ほね)放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)を行なうのを手始めに、西練兵場や日赤など市内各所で放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)調査(ちょうさ)を行ない、残留(ざんりゅう)放射能(ほうしゃのう)分布(ぶんぷ)調査(ちょうさ)しました。(ほね)測定(そくてい)するのは、(ほね)の中に(ふく)まれるリンが中性子(ちゅうせいし)吸収(きゅうしゅう)して強い放射化(ほうしゃか)(しめ)すことがそれまでの実験でわかっていたためです。
第2次調査(ちょうさ)(はん)の理化学研究所の研究者らは、この結果を「理化学研究所調査(ちょうさ)(はん)原子(げんし)爆弾(ばくだん)中間報告(ちゅうかんほうこく)」として報告(ほうこく)しています。
 

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22 山科(やましな)(きよし)氏 解剖(かいぼう)記録(きろく)・病理標本


23 第2次陸軍省(りくぐんしょう)広島災害(さいがい)調査(ちょうさ)(はん)による放射線(ほうしゃせん)測定(そくてい)
1945(昭和20)年8月17日に理化学研究所の木村(きむら)一治(もとはる)氏が爆心地(ばくしんち)付近(ふきん)測定(そくてい)した様子を、後日再現(さいげん)して撮影(さつえい)

陸軍省広島戦災(せんさい)再調査(さいちょうさ)(はん)調査(ちょうさ)活動(かつどう)
8月22日陸軍軍医(ぐんい)学校長(がっこうちょう)井深(いぶか)健次(けんじ)氏は東京帝国(ていこく)大学(だいがく)医学部(いがくぶ)都築(つづき)正男(まさお)教授(きょうじゅ)と協議し、陸軍軍医学校・理化学研究所と東京帝国(ていこく)大学(だいがく)からなる合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)(陸軍省広島戦災(せんさい)再調査(さいちょうさ)(はん))を広島に送ることにしました。
8月29日、陸軍から御園生(みそのう)少佐(しょうさ)山科(やましな)(きよし)少佐(しょうさ)、東大から都築(つづき)教授(きょうじゅ)石橋(いしばし)助手(外科)・三宅(みやけ)仁助(ひとし)教授(きょうじゅ)(病理)ら、理化学研究所から杉本朝雄・山科文男の研究者からなる合同(ごうどう)調査団(ちょうさだん)が広島入りします。
先行していた陸軍本橋(もとはし)少佐(しょうさ)らと合同研究を行い9月1日に広島第一帝国(ていこく)大学宇品分院(うじなぶんいん)で合同研究会を開きました。
9月1日から9月10日にかけて、7回にわたる報告書(ほうこくしょ)提出(ていしゅつ)しています。
 
24 陸軍省広島戦災(せんさい)再調査(さいちょうさ)(はん)報告(ほうこく) 1~7号
1945(昭和20)9月1日から10日


京都帝国大学(きょうとていこくだいがく)調査団(ちょうさだん)調査(ちょうさ)活動(かつどう)
陸軍(りくぐん)京都師団司令部(しだんしれいぶ)から被爆(ひばく)調査(ちょうさ)依頼(いらい)を受けた京都帝国大学(きょうとていこくだいがく)は、理学部の・木村(きむら)毅一(こういち)助教授(じょきょうじゅ)清水(しみず)(さかえ)講師(こうし)、医学部の杉山(すぎやま)繁輝(しげてる)教授(きょうじゅ)島本(しまもと)光顕(みつあき)講師(こうし)木村(きむら)(まさし)の各研究者らと、軍から派遣(はけん)されていた技官(ぎかん)(ふく)めて総勢(そうぜい)10名からなる京都大学調査団(ちょうさだん)編成(へんせい)しました。
調査団(ちょうさだん)は、8月10日午後広島に入り、大本営主催(だいほんえいしゅさい)陸海軍(りくかいぐん)合同検討会(けんとうかい)に出席するとともに、物理・医学両分野での調査(ちょうさ)に入りました。
理学部の荒勝(あらかつ)教授(きょうじゅ)らは市内で試料を採取後(さいしゅご)、11日に広島を発って大学に持ち帰りこれを測定(そくてい)した結果、放射線(ほうしゃせん)確認(かくにん)します。
調査団(ちょうさだん)は一度はすべて広島から引き上げましたが、8月27日、中国軍管区司令軍医部から杉山(すぎやま)教授(きょうじゅ)再度(さいど)調査(ちょうさ)依頼(いらい)がなされます。菊池(きくち)武彦(たけひこ)血液学(けつえきがく))・舟岡(ふなおか)省吾(せいご)解剖学(かいぼうがく)両教授(りょうきょうじゅ)と相談しこれを了承(りょうしょう)します。
9月2日に京都帝国(ていこく)大学(だいがく)総合(そうごう)研究(けんきゅう)調査(ちょうさ)第1(ぱん)先発隊が広島に入り、9月4日には第1(ぱん)本隊が広島に到着(とうちゃく)して、郊外(こうがい)の大野陸軍病院で被災者(ひさいしゃ)診察(しんさつ)を開始しました。
しかし、広島県内で2,600人もの犠牲者(ぎせいしゃ)を出すことになる枕崎台風(まくらざきたいふう)が広島地方を9月17日に通過(つうか)し、この台風により引き起こされた山津波(やまつなみ)の一つが京都帝国(ていこく)大学(だいがく)調査団(ちょうさだん)本拠地(ほんきょち)としていた大野陸軍病院を(おそ)い、11名もの犠牲者(ぎせいしゃ)を出しました。これにより、京都帝国(ていこく)大学(だいがく)調査団(ちょうさだん)はその活動を停止せざるをえませんでした。
 
25 京都帝国(ていこく)大学(だいがく)原爆災害(げんばくさいがい)総合(そうごう)研究(けんきゅう)調査班(ちょうさはん)牛田地区(うしたちく)診療班(しんりょうはん)
1945(昭和20)年9月撮影(さつえい)



26 山津波(やまつなみ)によって破壊(はかい)された大野陸軍病院の惨状(さんじょう)
1945(昭和20)年9月撮影(さつえい)


大阪・九州帝国(ていこく)大学(だいがく)調査団(ちょうさだん)調査(ちょうさ)活動(かつどう)
九州帝国大学(きゅうしゅうていこくだいがく)
篠原(しのはら)健一(けんいち)教授(きょうじゅ)(物理)が西部軍の依頼(いらい)を受けて、軍の関係者と共に8月9日広島に入ります。
市内の軍関連(ぐんかんれん)施設(しせつ)を中心に調査(ちょうさ)し、大本営(だいほんえい)調査団(ちょうさだん)とも合流しますが、11日には広島を(はな)れ、その後はもっぱら長崎(ながさき)被爆(ひばく)調査(ちょうさ)にあたります。

大阪帝国(ていこく)大学(だいがく)
大阪海軍警備府(けいびふ)依頼(いらい)を受け、軍関係者と共に浅田(あさだ)常三郎(つねさぶろう)教授(きょうじゅ)(物理)が8月10日(くれ)の海軍病院に立()った後、広島に入りました。
金箔検電器(きんぱくけんでんき)で西練兵場の(すな)放射線(ほうしゃせん)があることを測定(そくてい)し、さらに、11日には、ガイガー計数器で放射線(ほうしゃせん)をより正確(せいかく)測定(そくてい)。この結果を()まえ、海軍関係者に原子(げんし)爆弾(ばくだん)であることを報告(ほうこく)し、広島を(はな)れ大阪に帰りました。
 
27 広島市戦災(せんさい)地区(ちく)土壌(どじょう)放射性(ほうしゃせい)物質(ぶっしつ)有無(うむ)調査(ちょうさ)成績(せいせき)()の一)
1945(昭和20)年8月11日 
大阪帝国(ていこく)大学(だいがく) 浅田(あさだ)常三郎(つねさぶろう)教授(きょうじゅ)測定(そくてい)


広島の大学・研究機関などによる調査(ちょうさ)
広島文理科大学、広島高等師範(しはん)学校をはじめ広島市内の各学校は大部分が被災(ひさい)し、被爆(ひばく)直後はほとんどが研究を中止していました。
しかし、こうした状況(じょうきょう)の中で、広島文理科大学の藤原(ふじわら)武夫(たけお)(物理学)教授(きょうじゅ)らは、放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)(はん)組織(そしき)し、理化学研究所のローリッツェン検電器(けんでんき)を借受けて9月13日から24日まで爆心地(ばくしんち)を中心に残留(ざんりゅう)放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)を行いました。
また、広島市立工業(こうぎょう)専門(せんもん)学校の平原(ひらはら)栄治(えいじ)氏(物理学)は金箔検電器(きんぱくけんでんき)手製(てせい)し、8月21日から9月7日の間、市内各所の放射能(ほうしゃのう)測定(そくてい)放射線(ほうしゃせん)分布図(ぶんぷず)を作成しました。
岡山大学医学部(いがくぶ)から広島県立医学(いがく)専門(せんもん)学校に赴任(ふにん)してきていた玉川(たまがわ)忠太(ちゅうた)助教授(じょきょうじゅ)は、疎開先(そかいさき)甲立町(こうだちちょう)で広島新型爆弾(ばくだん)巨大(きょだい)破壊力(はかいりょく)()き、8月8日には、広島市に出向いて広島市衛生(えいせい)部長(ぶちょう)死因(しいん)究明(きゅうめい)のために病理(びょうり)解剖(かいぼう)が必要であることを説明しその許可(きょか)を求めました。
8月下旬(げじゅん)、ようやく変死体の処理(しょり)として許可(きょか)を得た(かれ)は、広島逓信(ていしん)病院(びょういん)で19例の病理(びょうり)解剖(かいぼう)を行いました。
 
28 広島文理科大学 広島市爆撃(ばくげき)に関する報告(ほうこく)
1945(昭和20)年8月 
広島文理科大学 三村教授(きょうじゅ)ほか



29 広島逓信病院(ていしんびょういん)病理(びょうり)解剖(かいぼう)を行なう玉川(たまがわ)忠太(ちゅうた)
1945(昭和20)年10月11日撮影(さつえい)


その他の機関による調査(ちょうさ)活動(かつどう)
東京帝国(ていこく)大学(だいがく)伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうじょ)
広島県衛生課(えいせいか)から調査依頼(ちょうさいらい)があり、8月29日に草野(くさの)信男(のぶお)氏ら5名が広島に入り、調査(ちょうさ)を開始しました。
急性(きゅうせい)原爆症(げんばくしょう)下痢(げり)や血便の症状(しょうじょう)伝染病(でんせんびょう)赤痢(せきり)など)の発生と(うたが)われたためです。

広島管区気象台
中央気象台の藤原(ふじわら)台長(だいちょう)指示(しじ)で、広島管区気象台(後の広島地方気象台)が独自(どくじ)原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)に取り組みます。
担当者(たんとうしゃ)(きた)(いさお)氏らの努力により、丹念(たんねん)()()調査(ちょうさ)を行なってまとめた黒い雨の調査記録(ちょうさきろく)貴重(きちょう)資料(しりょう)になっています。
 
30 広島管区気象台「広島原子(げんし)爆弾(ばくだん)災害(さいがい)調査(ちょうさ)報告(ほうこく)
1947(昭和22)年11月


桜隊(さくらたい) 仲みどり の原爆症死(げんばくしょうし)

仲みどりは被爆(ひばく)当時軍施設(ぐんしせつ)慰問(いもん)のために(つく)られた新劇(しんげき)移動(いどう)演劇隊(えんげきたい)桜隊(さくらたい)」(団長(だんちょう) 丸山(まるやま)定夫(さだお))の劇団員(げきだんいん)でした。桜隊(さくらたい)の事務所(けん)(りょう)であった堀川町(ほりかわちょう)爆心地(ばくしんち)から750m)で被爆(ひばく)し、倒壊(とうかい)した家屋の下敷(したじ)きになりました。幸いやけどや大きなけがもなく、自力で()い出し火災(かさい)(のが)れて京橋川の水に入っているところを暁部隊(あかつきぶたい)に救助され、宇品(うじな)臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)収容(しゅうよう)されます。()い出した時はズロース1(まい)になっており、京橋川岸に着いたころには(すで)に、胸部(きょうぶ)(いた)みがあり、おう()(はげ)しく、()いた物には血液(けつえき)()じってました。収容後(しゅうようご)、さらに、大便中にも血液(けつえき)()じり、尿(にょう)が黒くなるいう典型的な急性(きゅうせい)原爆症(げんばくしょう)症状(しょうじょう)(しめ)しました。
体の異常(いじょう)がおさまらず、不安に感じた彼女(かのじょ)は8日、シーツを身にまとっただけで救護所(きゅうごしょ)無断(むだん)(はな)れ、広島駅から汽車を()()いで9日の深夜、東京の実家にたどり着きました。
ここで何とか持ち直しますが、極度の食欲不振(しょくよくふしん)などに苦しみ、16日東京帝国(ていこく)大学(だいがく)附属(ふぞく)病院(びょういん)に行き都築(つづき)外科(げか)に入院します。
当初の所見は「全身擦過傷(さっかしょう)」でしたが、白血数の異常(いじょう)減少(げんしょう)、高熱、脱毛(だつもう)(きず)化膿(かのう)など症状(しょうじょう)の悪化が進みました。
当時としては最高水準(すいじゅん)治療(ちりょう)を受けますが、8月24日に死亡(しぼう)死因(しいん)は初めてカルテに正式に記入された「原子(げんし)爆弾(ばくだん)(しょう)」でした。
 
31 仲みどり


32 仲みどり臓器(ぞうき)標本(ひょうほん)
1972(昭和47)年アメリカから日本に返還(へんかん)された資料中(しりょうちゅう)(ふく)まれていました

  原子(げんし)爆弾(ばくだん)ナリト(みと)
原爆投下後(げんばくとうかご)に行われた被爆(ひばく)調査(ちょうさ)軌跡(きせき)を追う

 ●はじめに
 ●被爆前夜─日本の原子物理・放射線の研究状況
 ●突然襲ってきた「新型爆弾」の悲劇
 ●混乱の中の初期調査と原爆の確認
 ●終戦の混乱の中でも続けられる被爆調査
 ●原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団
 ●日本映画者による原子爆弾記録映画の制作
 ●占領終了後の被爆調査
 ●現在における被爆調査の役割
 ●おわりに/ご協力いただいた方々・参考文献

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