原爆症に苦しみながら
江戸家猫八さん
八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜け落ち、白血球は減り続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏
江戸家猫八さんは、1940年(昭和15年)、古川ロッパ一座に入団し、俳優になりました。
1942年(昭和17年)、召集により陸軍に入隊、輸送船の警備にあたります。1943年(昭和18年)秋、宇品に寄港。以来、宇品本隊の事務室で勤務しました。1945年(昭和20年)8月6日、猫八さん(当時23歳)は、陸軍船舶司令部の兵舎内で被爆。大きなケガはなく、宇品で被爆者の救護にあたりました。
復員後、東京に帰郷。原爆症に苦しみますが、被爆体験を語ることはありませんでした。1950年(昭和25年)、三代目江戸家猫八を襲名。1955年(昭和30年)、NHK「お笑い三人組」に出演し、一躍有名になります。
原爆症への恐れや不安が少しずつ吹っ切れていく中、「被爆の話を人に伝えていくのは、今も命を貰って生きている人間の務めではないか」と思うようになり、1981年(昭和56年)、初めて「従軍被爆体験記」と題してヒロシマを語りました。2001年(平成13年)死去。
「申し訳ない」
喜味こいしさん
喜味こいしさんは、1940年(昭和15年)、13歳の時、2歳上の兄いとしさんと漫才を始めました。
日本国内全体に戦時色が強まる中、こいしさんは、志願して陸軍に入隊しました。被爆当時、こいしさん(当時17歳)は、中国軍管区教育隊に所属し、広島城北側にあった兵舎内で被爆しました。柱などの下敷きになりますが救出され、三篠橋そばの土手まで運ばれて応急処置を受けました。その後、似島の病院へ運ばれ、終戦を迎えました。
復員後、大阪に戻り、兄から漫才を再開するよう言われましたが、気が進みませんでした。原爆で亡くなった人たちのことを思うと、人を笑わせる商売をすることに抵抗があったのです。しかし、生活のために漫才をすることにしました。
1948年(昭和23年)「夢路いとし・喜味こいし」に改名。以来、実の兄弟漫才コンビとして活躍します。
こいしさんは、「自分が元気で帰ってこられたことが申し訳ない」と言い、原爆のことを避け、被爆者健康手帳も取得しませんでした。しかし、晩年、少しずつ被爆体験を語り、戦争の悲惨さを伝えてきました。2011年(平成23年)死去。
提供/(株)和光プロダクション
広島陸軍船舶司令部所属部隊(通称:暁部隊)
丸山眞男さんと江戸家猫八さんは、広島陸軍船舶司令部の部隊(通称:暁部隊)に所属していました。
広島陸軍船舶司令部には約30の部隊があり、部隊を統括指揮する司令部は、宇品町(現在の南区宇品海岸三丁目)の凱旋館にありました。司令部は、爆心地
から約4.5km
離れていたため、被害が少なく、いち早く救援活動を行うことができました。