在韓被爆者の援護への道を開く
辛泳洙さん
提供/辛亨根氏
辛さんは、1919年(大正8年)、朝鮮京畿道平沢市に生まれました。1942年(昭和17年)、広島にあった軍指定の製薬会社に徴用されました。当時日本には、多くの朝鮮人が住んでいました。
辛さん(当時26歳)は、出勤途中、幟町の電停で被爆し、上半身に大やけどを負いました。宇品へ逃げ、似島収容所、呉線沿いに設置された陸軍病院の分院へと搬送され、終戦を迎えました。病院からの要請で退院しましたが、縁故先はありません。唯一、会社の上司が疎開用に借りていた家が八幡村(現在の佐伯区八幡)にあったため、辛さんは、半裸姿で、空腹と病気と寒さに耐えながらその家に向かいました。途中、汽車の中で、朝鮮人というだけで、日本人から心ない言葉をあびせられ、精神的な苦痛を受けます。その後、廿日市の学校救護所で過ごし、同年末、故郷に戻りました。
辛さんは、帰国後も原爆による下痢と発熱や顔のやけどに苦しみ、経済的にも厳しい状況でした。朝鮮に戻った原爆被爆者の多くは、辛さんのように原爆症と貧困に苦しんでいました。
1967年(昭和42年)、韓国原爆被害者援護協会(現・韓国原爆被害者協会)が「補償・被爆者病院建設・核兵器廃止」を目的として設立されました。辛さんは、1970年(昭和45年)、在韓被爆者の救援に自分の余生を捧げる決意をし、同協会の会長に就任、在韓被爆者にも日本の被爆者と同等の援護を求める運動に力を注ぎました。
1974年(昭和49年)、辛さんは、渡日して治療中に被爆者健康手帳を取得します。このことは、海外に住む外国人被爆者の援護への道を開くきっかけとなりました。1999年(平成11年)死去。
被爆者健康手帳
1974年(昭和49年)7月25日、東京都は来日した辛さんに被爆者健康手帳を交付しました。当時、海外に住む被爆者は、被爆者健康手帳を取得しても、日本国内でしか医療の給付などを受けることができませんでした。辛さんの願いは、海外で暮らす被爆者が、渡日しなくても被爆者健康手帳を取得でき、安心して療養できることでした。
所蔵/辛亨根氏
李王家の一族
本川橋
西詰
李鍝殿下
李鍝殿下は、朝鮮王家最後の皇太子、李垠殿下の甥にあたります。1922年(大正11年)に来日し、軍人としての教育を受けました。被爆当時、第二総軍教育参謀中佐であった李殿下は、馬で出勤途中に被爆しました。西方に逃れましたが、本川橋西詰で力尽きました。うずくまっているところを発見され、宇品の凱旋館に収容、似島へ転送されますが、翌7日に亡くなりました。
李鍝殿下の遺体は、総軍の飛行機で、現在のソウルの自宅へ運ばれました。