生きる

異国(いこく)の地で

異国の地で

 原爆(げんばく)がさく(れつ)したとき、広島には35万人前後の人々がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物(たてもの)疎開(そかい)作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字で、朝鮮(ちょうせん)台湾(たいわん)や中国大陸からの人々も(ふく)まれ、その中には強制的(きょうせいてき)徴用(ちょうよう)された人々もいました。また、中国や東南アジアからの留学生(りゅうがくせい)、ドイツ人神父、アメリカ兵捕虜(ほりょ)白系(はっけい)ロシア人などの外国人も(ふく)まれていました。

在韓(ざいかん)被爆者(ひばくしゃ)援護(えんご)への道を開く

辛泳洙(しんよんす)さん

提供/辛亨根氏

 (しん)さんは、1919年(大正8年)、朝鮮(ちょうせん)京畿道(けいきどう)平沢(ぴょんてく)市に生まれました。1942年(昭和17年)、広島にあった軍指定の製薬(せいやく)会社に徴用(ちょうよう)されました。当時日本には、多くの朝鮮人(ちょうせんじん)が住んでいました。
 (しん)さん(当時26(さい))は、出勤(しゅっきん)途中(とちゅう)幟町(のぼりまち)の電停で被爆(ひばく)し、上半身に大やけどを負いました。宇品(うじな)()げ、似島(にのしま)収容所(しゅうようじょ)呉線(くれせん)沿()いに設置(せっち)された陸軍病院の分院へと搬送(はんそう)され、終戦を(むか)えました。病院からの要請(ようせい)退院(たいいん)しましたが、縁故(えんこ)先はありません。唯一(ゆいいつ)、会社の上司が疎開(そかい)用に借りていた家が八幡村(やはたむら)(現在(げんざい)の佐伯区八幡(やはた))にあったため、(しん)さんは、半裸(はんら)姿で、空腹(くうふく)と病気と寒さに()えながらその家に向かいました。途中(とちゅう)、汽車の中で、朝鮮人(ちょうせんじん)というだけで、日本人から心ない言葉をあびせられ、精神的(せいしんてき)苦痛(くつう)を受けます。その後、廿日市(はつかいち)の学校救護所(きゅうごじょ)()ごし、同年末、故郷(こきょう)(もど)りました。
 (しん)さんは、帰国後も原爆(げんばく)による下痢(げり)と発熱や顔のやけどに苦しみ、経済的(けいざいてき)にも(きび)しい状況(じょうきょう)でした。朝鮮(ちょうせん)(もど)った原爆(げんばく)被爆者(ひばくしゃ)の多くは、(しん)さんのように原爆症(げんばくしょう)貧困(ひんこん)に苦しんでいました。
 1967年(昭和42年)、韓国(かんこく)原爆(げんばく)被害者(ひがいしゃ)援護(えんご)協会(きょうかい)((げん)韓国(かんこく)原爆(げんばく)被害者(ひがいしゃ)協会(きょうかい))が「補償(ほしょう)被爆者(ひばくしゃ)病院(びょういん)建設(けんせつ)核兵器(かくへいき)廃止(はいし)」を目的として設立(せつりつ)されました。(しん)さんは、1970年(昭和45年)、在韓(ざいかん)被爆者(ひばくしゃ)救援(きゅうえん)に自分の余生(よせい)(ささ)げる決意をし、同協会の会長に就任(しゅうにん)在韓(ざいかん)被爆者(ひばくしゃ)にも日本の被爆者(ひばくしゃ)と同等の援護(えんご)を求める運動に力を注ぎました。
 1974年(昭和49年)、(しん)さんは、渡日(とにち)して治療(ちりょう)中に被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)を取得します。このことは、海外に住む外国人被爆者(ひばくしゃ)援護(えんご)への道を開くきっかけとなりました。1999年(平成11年)死去。

被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)

1974年(昭和49年)7月25日、東京都は来日した(しん)さんに被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)を交付しました。当時、海外に住む被爆者(ひばくしゃ)は、被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)を取得しても、日本国内でしか医療(いりょう)の給付などを受けることができませんでした。(しん)さんの願いは、海外で()らす被爆者(ひばくしゃ)が、渡日(とにち)しなくても被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)を取得でき、安心して療養(りょうよう)できることでした。

所蔵/辛亨根氏



()王家(おうけ)の一族

 本川橋 西詰(にしづめ)

李鍝(いう)殿下(でんか)

 李鍝(いう)殿下(でんか)は、朝鮮(ちょうせん)王家(おうけ)最後の皇太子(こうたいし)李垠(いうん)殿下(でんか)(おい)にあたります。1922年(大正11年)に来日し、軍人としての教育を受けました。被爆(ひばく)当時、第二総軍(そうぐん)教育(きょういく)参謀(さんぼう)中佐(ちゅうさ)であった()殿下(でんか)は、馬で出勤(しゅっきん)途中(とちゅう)被爆(ひばく)しました。西方に(のが)れましたが、本川橋西詰(にしづめ)力尽(ちからつ)きました。うずくまっているところを発見され、宇品(うじな)凱旋館(がいせんかん)収容(しゅうよう)似島(にのしま)へ転送されますが、(よく)7日に()くなりました。
 李鍝(いう)殿下(でんか)遺体(いたい)は、総軍(そうぐん)の飛行機で、現在(げんざい)のソウルの自宅(じたく)へ運ばれました。

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-1945.8.6 その日からの私-