生きる

家族の(きずな)

家族の絆

 原爆(げんばく)は、無差別に多くの命を(うば)いました。
 熱線、爆風(ばくふう)放射線(ほうしゃせん)によって、瞬時(しゅんじ)に多くの人が()くなっただけでなく、(たお)れた家屋の下敷(したじ)きとなり、生きたまま(ほのお)に包まれる人もいました。懸命(けんめい)看病(かんびょう)にもかかわらず、家族の前で苦しみながら()くなった人もいました。行方不明のままの人もいます。無傷(むきず)にもかかわらず、原爆症(げんばくしょう)()くなる人もいました。
 数知れない悲惨(ひさん)な死を見届(みとど)けた者の使命は「生きる」ことでした。

眼鏡

眼鏡(めがね)

佐伯(さいき)敏子(としこ)さんの実母茂曽路(もそろ)モトさん(当時54(さい))は、広瀬(ひろせ)元町(もとまち)現在(げんざい)の中区西十日市町)の自宅(じたく)被爆(ひばく)し、行方不明となりました。家族を(さが)すため被爆(ひばく)直後から市内に通い続けた影響(えいきょう)寝込(ねこ)んでいた敏子(としこ)さんのもとに、9月6日、義兄(ぎけい)がモトさんの頭部を風呂敷(ふろしき)に包んで持ち帰りました。()のくぼみには、モトさんがいつもかけていたこの眼鏡(めがね)が、半ば()けてくっついていました。

寄贈/佐伯敏子氏

親族13人の死

佐伯敏子さん

佐伯敏子さん

提供/佐伯卓己氏

 佐伯(さいき)敏子(としこ)さん(当時25(さい))は、広瀬(ひろせ)元町(もとまち)現在(げんざい)の中区西十日市町)で、実母、次兄と妹の4人で()らしていました。敏子(としこ)さんは、被爆(ひばく)当日、子どもを(あず)けていた広島市郊外(こうがい)の姉夫婦(ふうふ)の家にいました。きのこ雲を見た敏子(としこ)さんは、市内に(もど)り、毎日のように家族を(さが)し歩きました。行方不明の実母は、遺体(いたい)で発見されましたが、流血しながら帰ってきた次兄、頭蓋骨(ずがいこつ)まで見える重傷(じゅうしょう)の長兄、全身やけどを負い、肋骨(ろっこつ)が飛び出た長兄の二人の(おさな)い子ども、妹らと再会(さいかい)を果たしました。しかし、軽症(けいしょう)だった者すら次々と()くなり、結局、被爆(ひばく)の日から70日の間に、実母、兄妹、義父母(ぎふぼ)など親族13人を()くしました。敏子(としこさん)さん自身も原爆症(げんばくしょう)発症(はっしょう)し、また兄弟間でさえ原爆症(げんばくしょう)への偏見(へんけん)があったことに心を(いた)めました。
 敏子(としこ)さんは、苦しみながらも、中国から復員(ふくいん)した夫とともに、3人の子どもを懸命(けんめい)に育てました。
 多くの親族を原爆(げんばく)(うば)われた敏子(としこ)さんは、被爆死(ひばくし)した約7万体の遺骨(いこつ)(おさ)められている原爆(げんばく)供養塔(くようとう)掃除(そうじ)を40年以上続けました。また、二度と戦争を起こしてはならないと、被爆(ひばく)体験(たいけん)を積極的に語ってきました。

一人息子を失う

(あずま)清人(きよと)さんミヤコさん夫婦(ふうふ)

 (あずま)良樹(よしき)さんは、県立広島商業学校の1年生でした。県立広島商業学校は、1944年(昭和19年)、江波(えば)町の本校舎が陸軍兵器学校広島分教所として使用されることになり、皆実(みなみ)町の旧県立広島師範(しはん)学校校舎に移転(いてん)していました。
 良樹(よしき)さんは、校庭で朝礼を受けている時に被爆(ひばく)しました。全身に大やけどを負い、東洋工業の(りょう)収容(しゅうよう)されているところを、市内を(さが)し回っていた母親のミヤコさんに発見されました。ミヤコさんは良樹(よしき)さんを疎開(そかい)先の(くれ)へ連れて帰り、懸命(けんめい)治療(ちりょう)を受けさせましたが、良樹(よしき)さんは9月24日に()くなりました。一人息子を()くした東さん夫婦(ふうふ)は、二人きりでその後の生涯(しょうがい)を送りましたが、生前これらの遺品(いひん)について語ることはありませんでした。


提供/杉原宣機氏

ズボン 帽子

ズボンと帽子(ぼうし)
このズボンと帽子(ぼうし)は、良樹(よしき)さんが被爆(ひばく)当日着ていたもので、血痕(けっこん)が残っています。ズボンには()がせる時に切り()いた(あと)があります。

寄贈/杉原キクヱ氏

生きる

-1945.8.6 その日からの私-