生きる

家族の(きずな)

兄妹で()らせる日を楽しみに

上原田(うえはらだ)武雄(たけお)さん

 上原田(うえはらだ)さん一家は、被爆(ひばく)当時、鷹匠町(たかじょうまち)(現在(げんざい)の中区本川町)に住んでいました。
 上原田(うえはらだ)武雄(たけお)さんの父弥一(やいち)さん(当時50(さい))は爆心地(ばくしんち)から約500mの小町の控訴院(こうそいん)勤務(きんむ)中に被爆(ひばく)し、8月13日に()くなりました。母千代子さん(40(さい))と妹の澄江(すみえ)さん(16(さい))は、爆心地(ばくしんち)から約900メートルの雑魚場(ざこば)町(現在(げんざい)の中区国泰寺町(こくたいじちょう)一丁目)で国民義勇隊(ぎゆうたい)として建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)中に被爆(ひばく)しました。千代子さんはコンクリート(べい)の下()きになって()くなりました。ひじから下が見えているだけの千代子さんをどうする事もできず、澄江(すみえ)さんは、手を合わせて(ほのお)の中を()げました。弟の政義(まさよし)さん(12(さい))と妹の好江(よしえ)さん(9(さい))は行方不明のままです。
 武雄(たけお)さんは8月19日に岩手県から復員(ふくいん)し、妹の澄江(すみえ)さんと再会(さいかい)しましたが、生計を立てるために澄江(すみえ)さんを可部(かべ)親戚(しんせき)(たく)に残し、警察(けいさつ)学校に入校しました。二人は、兄妹で()らせる日を楽しみにしていましたが、澄江(すみえ)さんは脱毛(だつもう)倦怠(けんたい)、高熱などの症状(しょうじょう)が出て、1946年(昭和21年)6月28日、武雄(たけお)さんが看病(かんびょう)する中()くなりました。
 家族5人を原爆(げんばく)(うば)われ一人となった武雄(たけお)さんは、この(つら)い体験を(つま)や子どもだけに伝えてきました。しかし、被爆(ひばく)から52年後、武雄(たけお)さんは「多くの人に、原爆(げんばく)、戦争の悲惨(ひさん)なこと、平和の(とうと)さ、(つみ)もけがれもない人たちが、被爆者(ひばくしゃ)というだけで、偏見(へんけん)・差別などにより心苦しむことがないよう、(つら)いことだが真実を伝え、(うった)えるべきだ」と思い、テレビ番組に出演(しゅつえん)し、被爆(ひばく)体験を語りました。

上原田武雄さん

提供/上原田武雄氏



友達に宛てた手紙

友達に()てた手紙の下書き

澄江(すみえ)さんが、1946年(昭和21年)に書いた手紙の下書き。
被爆(ひばく)当日、コンクリート(べい)の下()きになった母親を助けられず、母親に合掌(がっしょう)して()げたこと、体調が悪くても親戚宅(しんせきたく)にいるため体を休めることができないこと、武雄(たけお)さんと一緒(いっしょ)()らせる日を楽しみにしていることなどをつづっています。しかし、切手代がなかったため、これらの手紙を友達に送ることはできませんでした。

寄贈/上原田武雄氏

きのこ会

 原子爆弾(げんしばくだん)による放射線(ほうしゃせん)は、胎児(たいじ)にも影響(えいきょう)(およ)ぼしました。死産する例もあり、無事に産まれてきた子も、他の子に(くら)べると死亡(しぼう)(りつ)が高くなっています。また、近距離(きんきょり)(およ)妊娠(にんしん)初期(しょき)胎内(たいない)被爆児(ひばくじ)の中には、頭囲が(いちじる)しく小さいため、小頭症(しょうとうしょう)()ばれ、日常(にちじょう)生活で介護(かいご)を要する(ほど)知的(ちてき)障害(しょうがい)(ともな)う場合もありました。
 小頭症(しょうとうしょう)の子を持つ親たちは、20年もの長い間、同じ境遇(きょうぐう)の人たちがいることを知ることもなく、「被爆者(ひばくしゃ)障害(しょうがい)のある子を産む」という(あやま)った考えを持つ人さえいて、自分たちだけで(なや)み、苦しみながらひっそりと()らしていました。
 作家の山代(やましろ)(ともえ)さんらの()びかけで発足した「広島研究の会」の調査(ちょうさ)により、小頭症(しょうとうしょう)患者(かんじゃ)とその家族の実態(じったい)が明らかになり、1965年(昭和40年)、小頭症(しょうとうしょう)患者(かんじゃ)と親たちの会「きのこ会」が結成されました。「きのこ雲の下で生まれた命。たとえ日陰(ひかげ)()らしていようとも、落ち葉を()しのけ成長するきのこのようにすくすくと育ってほしい」という親の願いが「きのこ会」の名前の由来です。
 「きのこ会」は、国へ小頭症(しょうとうしょう)患者(かんじゃ)への支援(しえん)(うった)え続け、1967年(昭和42年)、国は小頭症(しょうとうしょう)原爆(げんばく)因果(いんが)関係(かんけい)(みと)めました。
 現在(げんざい)、国が(みと)めている原子(げんし)爆弾(ばくだん)小頭症(しょうとうしょう)患者(かんじゃ)は全国に22人います。

原子(げんし)爆弾(ばくだん)小頭症(しょうとうしょう)

「広島研究の会」は、ABCC(原爆(げんばく)傷害(しょうがい)調査委員会)や広島大学が発表した論文(ろんぶん)等を抜粋(ばっすい)し、医学的に立証(りっしょう)された原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)小頭症(しょうとうしょう)の関係を明らかにしました。論文(ろんぶん)のうち一番早いものは、ABCCが1952年(昭和27年)に発表したものです。これらの論文(ろんぶん)は、1965年(昭和40年)まで、一般(いっぱん)の人には知られていませんでした。

寄託/広島大学文書館

畠中さん親子

畠中(はたなか)さん親子はいつも一緒(いっしょ)。百合子さんは、両親が(いとな)理髪店(りはつてん)で一日を()ごしていました。

1973年(昭和48年) 7月撮影/重田雅彦氏

 1945年(昭和20年)8月6日、当時妊娠(にんしん)3カ月だった畠中(はたなか)敬恵(よしえ)さんは、爆心地(ばくしんち)から約800メートルの西大工(だいく)町(現在(げんざい)の中区榎町(えのまち))で被爆(ひばく)敬恵(よしえ)さんの体には無数のガラス(へん)()()さり、黒い雨にもうたれ、脱毛(だつもう)吐血(とけつ)などの放射線(ほうしゃせん)による急性障害(しょうがい)で生死の(さかい)をさまよいました。
 夫の国三さんが復員(ふくいん)した後、畠中(はたなか)さん一家は、大竹市に(うつ)りました。夫婦(ふうふ)理髪店(りはつてん)(いとな)みながら、敬恵(よしえ)さんは、1946年(昭和21年)に百合子さんを出産しました。小頭症(こしょうとうしょう)の百合子さんは3(さい)になっても歩くことができず、日常(にちじょう)の生活でも介護(かいご)が必要で、小学校にも入学できませんでした。
 1965年(昭和40年)、国三さんは「きのこ会」に参加し、初代会長に就任(しゅうにん)しました。
 1978年(昭和53年)、「百合子を残しては死ねない」と言い続けた敬恵(よしえ)さんは、(がん)により()くなり、また、国三さんも2008年(平成20年)に()くなりました。現在(げんざい)百合子さんは、妹さんたちと()らしています。

岡田さん親子

宮崎県(みやざきけん) から成人式に参加した岡田佳一さん。「きのこ会」のみんなと会うことが何よりの楽しみでした。
1966年(昭和41年)1月撮影/重田雅彦氏

 洋服店を(いとな)んでいた岡田一市(かずいち)さんタメさん夫婦(ふうふ)は、爆心地(ばくしんち)から約860メートルの胡町(えびすちょう)にあった自宅(じたく)被爆(ひばく)しました。家が全壊(ぜんかい)したため、二人は宮崎(みやざき)にあったタメさんの実家に(うつ)りました。
 タメさんは、原爆症(げんばくしょう)に苦しむ中、1946年(昭和21年)に佳一(よしかず)さんを出産しました。佳一(よしかず)さんは、生まれた時はあまりにも小さく、タメさんは育つだろうかと気がかりでした。岡田さん一家は、一度は広島に帰り洋服店を開業しましたが、うまくいかず、(ふたた)宮崎(みやざき)(もど)り、小間物店を開店しました。
 佳一(よしかず)さんは4(さい)の時、保育園(ほいくえん)に入園しましたが、先生から「佳一(よしかず)ちゃんは普通(ふつう)の子どもさんに(くら)べ、知恵(ちえ)(おく)れているようだ」と言われ、タメさんは目の前が真っ暗になりました。
 佳一(よしかず)さんは、1年(おく)れで小学校へ入学しましたが、授業(じゅぎょう)についていけません。一市(かずいち)さんは特殊(とくしゅ)学級(現在(げんざい)の「特別(とくべつ)支援(しえん)学級」=障害(しょうがい)のある子どものための学級)の設立(せつりつ)を教育委員会や学校へ求める運動を始め、佳一(よしかず)さんが4年生の時、特殊(とくしゅ)学級が(もう)けられました。また、中学校にも、一市さんの陳情(ちんじょう)特殊(とくしゅ)学級ができ、佳一(よしかず)さんは2年(おく)れで入学し、卒業しました。
 1963年(昭和38年)、一市さんが(がん)により()くなり、追い()ちをかけるように、隣家(りんか)からの出火で店が全焼しました。タメさんは、月の半分は(とこ)につくほどの原爆症(げんばくしょう)(かか)えながらも、店を再興(さいこう)し、佳一(よしかず)さんとの生活を(ささ)えました。
 1983年(昭和58年)(ころ)、タメさんは脳梗塞(のうこうそく)(たお)れ、半身(はんしん)不随(ふずい)になりましたが、「佳一(よしかず)をおいては死ねない」と、機能(きのう)回復(かいふく)の訓練に(はげ)みます。その後、佳一(よしかず)さんが急性(きゅうせい)腎不全(じんふぜん)となり、人工(じんこう)透析(とうせき)のできる別の病院に入院しました。タメさんと佳一(よしかず)さんは、(はな)れた病院にいながらも、お(たが)いを想いあっていました。
 1998年(平成10年)5月に佳一(よしかず)さんが()くなり、その2カ月後、後を追うようにタメさんも()くなりました。

生きる

-1945.8.6 その日からの私-