多くの被爆者の治療・看護にあたった外国人神父
クラウス・ルーメルさん
ルーメルさんは、1917年(大正6年)にドイツ・ケルン市で生まれました。1935年(昭和10年)イエズス会に入会し、1937年(昭和12年)に来日しました。主に東京で過ごしますが、空襲がはげしくなり、1945年(昭和20年)1月初め、広島に疎開しました。
ルーメルさん(当時28歳)は、長束修練院で被爆。幟町で被爆したフーゴ・ラッサール神父らを担架で長束へ運び治療しました。修練院ではペドロ・アルぺ院長とともに多くの被爆者の治療・看護にあたりました。1947年(昭和22年)、東京に戻り、教育者としての道を歩み始めました。
ルーメルさんは「戦争を嫌い、平和を愛する全人類の共通した意識は、大人になってからではなく、子どもの時から培う必要がある」と述べ、平和教育に力を注ぎました。2011年(平成23年)死去。
提供/F・J・モール氏
1945年(昭和20年)8月の日記
ルーメルさんは、被爆の混乱が落ち着いた8月18日、被爆当時の状況を日記につづりました。8月24日には、16日に葬式ミサを行ったことなどをつづっています。
所蔵/F・J・モール氏
「南方特別留学生」
アブドゥル・ラザクさん
広島文理科大学に留学したラザクさん
1945年(昭和20年)
提供/ズルキフリ・アブドゥル・ラザク氏
ラザクさんは、1925年(大正14年)にマラヤ(現在のマレーシア)・ペナンで生まれました。1944年(昭和19年)、「南方特別留学生」として来日し、翌年、広島文理科大学へ入学しました。
太平洋戦争中、日本政府は、大東亜共栄圏構想の一環として、中国大陸と東南アジアから、官費留学生を迎え入れていました。この留学生制度は、中国大陸からの「中国選抜留学生」と東南アジアからの「南方特別留学生」からなり、広島では広島文理科大学と広島高等師範学校が、毎年受け入れていました。
ラザクさん(当時20歳)は、東千田町の校舎内で授業中に被爆、大手町にあった「興南寮」に戻り、共に学んだ留学生たちを救助しました。被爆当時、広島にはラザクさんをはじめ21人の留学生がおり、うち8人が亡くなりました。
ラザクさんは、帰国後、国語の教師として教壇に立ちました。1982年(昭和57年)からは、日本語教育にも携わります。
原爆被災の苦しみと惨めさを自ら体験したラザクさんは、戦争がなく、平和な世界を望んでいます。
収容先で亡くなったアメリカ兵捕虜
原爆犠牲米軍人慰霊
銘板(基町)
ジェームズ・ライアンさん
太平洋戦争末期、中国地方で捕虜となった下士官以下のアメリカ兵は、中国憲兵隊司令部、歩兵第一補充隊、中国軍管区司令部の三カ所に収容されていました。
ライアンさん(当時20歳)は、1945年(昭和20年)7月28日、乗機が撃墜されて捕虜となり、中国憲兵隊司令部に収容され、そこで被爆し、亡くなりました。
被爆当時、広島にはライアンさんをはじめ12人のアメリカ兵捕虜がおり、全員が亡くなりました。