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級友の記録を残して

関千枝子(せきちえこ)さん

関千枝子さん

提供/関千枝子氏

 関さん(当時13(さい) )は、宇品(うじな)にあった広島県立第二高等女学校の2年生でした。当日は体調不良で学校を休んでいて、宇品(うじな)町の自宅(じたく)被爆(ひばく)しました。同じ組の同級生39人は引率(いんそつ)教職員(きょうしょくいん)二人とともに、雑魚場(ざこば)町(現在(げんざい)の中区国泰寺町(こくたいじちょう)一丁目)で建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)中に被爆(ひばく)、生徒一人だけが奇跡的(きせきてき)に助かりました。
 関さんは、学校を休んで助かったという負い目、生き残ったことの重荷を(いだ)きながら、新聞記者となりました。
 1976年(昭和51年)、関さんは、遺族(いぞく)の集いで、悲しく、(いた)ましい遺族(いぞく)の話を聞き、級友の被爆(ひばく)記録(きろく)を残すことを決意しました。級友38人全員の軌跡(きせき)をたどり、1985年(昭和60年)『広島第二県女二年西組』を出版(しゅっぱん)しました。
 関さんは75(さい)まで女性(じょせい)の新聞を作り続け、現在(げんざい)も、さまざまな市民運動を続けています。級友たちだけでなく広島の多くの子どもたちが建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に動員され、()くなり、(きず)ついたことを(うった)え続けています。

『広島第二県女二年西組 原爆(げんばく)で死んだ級友たち』
関千枝子著/1985年(昭和60年)筑摩書房発行

被爆(ひばく)から30年後、関さんは被爆(ひばく)した級友たちの記録(きろく)づくりを始めました。8年を(つい)やして完成しました。

24年目に語る被爆体験(ひばくたいけん)

丸山眞男(まるやままさお)さん

 東京(とうきょう)帝国大学(ていこくだいがく)法学部(ほうがくぶ)助教授(じょきょうじゅ)であった丸山さん(当時31(さい))は、1945年(昭和20年)4月、(さい)召集(しょうしゅう)宇品(うじな)にあった陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令部(しれいぶ)参謀部(さんぼうぶ)情報班(じょうほうはん)配属(はいぞく)されました。丸山さんは、司令部前の広場で朝礼中に被爆(ひばく)しましたが、その時は高い司令塔(しれいとう)(かげ)()たため、何の(きず)を受けることなく、9日、報道(ほうどう)班員(はんいん)とともに、大手町、相生橋、広島(じょう)八丁堀(はっちょうぼり)泉邸(せんてい)(現在(げんざい)の縮景園)を調査(ちょうさ)して回りました。
 復員(ふくいん)後、大学に(もど)った丸山さんは、1946年(昭和21年)、「(ちょう)国家(こっか)主義(しゅぎ)論理(ろんり)と心理」で論壇(ろんだん)に登場して以来、日本を代表する政治(せいじ)学者(がくしゃ)の一人として各界に大きな影響(えいきょう)(あた)えました。
 被爆(ひばく)から24年後の1969年(昭和44年)8月、丸山さんは、中国新聞紙上で原爆(げんばく)記録(きろく)写真を公開するとともに初めて被爆(ひばく)体験(たいけん)を語りました。24年経過(けいか)しても、被爆者(ひばくしゃ)原爆症(げんばくしょう)で苦しみ()くなっていく現実(げんじつ)について、「(広島は)戦争の惨禍(さんか)の1ページではない。((りゃく))広島は毎日起こりつつある現実(げんじつ)で、毎日毎日新しくわれわれに問題を()きつけている」と語っています。その後は、被爆(ひばく)体験(たいけん)を語ることはなく、また「(わたし)は広島で生活していた人間というよりも、至近(しきん)距離(きょり)にいる傍観者(ぼうかんしゃ)」と語り、被爆者(ひばくしゃ)健康(けんこう)手帳(てちょう)を取得しませんでした。1996年(平成8年)死去。

8月9日の市内の惨状(さんじょう)

丸山眞男(まるやままさお)さんは、被爆(ひばく)24年後に14(まい)原爆(げんばく)記録(きろく)写真を公開しました。
当時、陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)司令部(しれいぶ)参謀部(さんぼうぶ)写真班員(はんいん)であった川原四儀(よつぎ)さん(当時22(さい))が、丸山さんに同行して、撮影(さつえい)した写真です。

相生橋

紙屋町

広島流川教会

柳橋西詰(やなぎばしにしづめ)

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-1945.8.6 その日からの私-