生きる

伝える

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(わたし)たちが、66年前の出来事を知ることができるのはなぜでしょうか。
 生きることで精一杯(せいいっぱい)状況(じょうきょう)にありながらも、被爆(ひばく)の体験を風化させてはならないと、被爆(ひばく)状況(じょうきょう)や失われた命について、記録し、残すことを使命とした被爆者(ひばくしゃ)がいました。

心を(おに)にして

松重(まつしげ)美人(よしと)さん

 松重さんは、1941年(昭和16年)、芸備日日新聞社に入社しました。芸備日日新聞社が中国新聞社に吸収(きゅうしゅう)合併(がっぺい)された後は写真部に所属(しょぞく)し、1944年(昭和19年)以降(いこう)は、中国軍管区司令部の報道班(ほうどうはん)員も()ねました。
 松重さん(当時32(さい))は翠町(みどりまち)自宅(じたく)被爆(ひばく)被爆(ひばく)直後、勤務先(きんむさき)の中国新聞社に向かうため、市街地に入ろうとしましたが、火災(かさい)のため入ることができず、御幸橋(みゆきばし)まで引き返しました。報道(ほうどう)カメラマンである松重さんは、御幸橋(みゆきばし)惨状(さんじょう)撮影(さつえい)しようとしましたが、地獄(じごく)のような光景を前に、なかなかシャッターを切ることができませんでした。その場所で30分以上葛藤(かっとう)した末、心を(おに)にしてシャッターを切りましたが、「被災者(ひさいしゃ)を助けもせずに写真を写しているので、被災者(ひさいしゃ)(わたし)のことを無慈悲(むじひ)に思ったのでは」という思いが残りました。8月6日に松重さんが撮影(さつえい)した5(まい)の写真は、歴史の証人(しょうにん)です。
 1969年(昭和44年)、中国新聞社を定年(ていねん)退職(たいしょく)後は、証言者(しょうげんしゃ)として被爆(ひばく)体験(たいけん)を語り始めます。1978年(昭和53年)には、広島在住(ざいじゅう)原爆(げんばく)写真(しゃしん)撮影者(さつえいしゃ)とその遺族(いぞく)で「広島原爆(げんばく)被災(ひさい)撮影者(さつえいしゃ)の会」を設立(せつりつ)し、原爆(げんばく)被災(ひさい)写真(しゃしん)保存(ほぞん)と整理に力を注ぎました。2005年(平成17年)死去。

提供/松重美人氏

8月6日に撮影(さつえい)された5(まい)の写真

【1枚目(まいめ)
御幸橋西詰(みゆきばしにしづめ)(午前11時()(ころ))

左は御幸橋(みゆきばし)欄干(らんかん)千田町(せんだまち)巡査(じゅんさ)派出所(はしゅつじょ)前に臨時(りんじ)治療所(ちりょうしょ)急設(きゅうせつ)され、負傷者(ふしょうしゃ)治療(ちりょう)を待っています。建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)中に被爆(ひばく)した生徒が多くいました。治療(ちりょう)には警察官(けいさつかん)二人があたり、糧抹(りょうまつ)支廠(ししょう)から持ってきた油を塗布(とふ)して応急(おうきゅう)治療(ちりょう)をしました。

【4枚目(まいめ)
西消防署(しょうぼうしょ)皆実(みなみ)出張所(しゅっちょうじょ)(午後2時(ころ) 翠町(みどりまち))

松重さんの住居(じゅうきょ)の向かい側に、木造(もくぞう)3階建ての西消防署(しょうぼうしょ)皆実(みなみ)出張所(しゅっちょうじょ)がありました。爆風(ばくふう)倒壊(とうかい)し、望楼(ぼうろう)執務(しつむ)中だった消防士(しょうぼうし)倒壊(とうかい)と共に落ち、2階にいた4、5人は下敷(したじ)きになりました。

【2枚目(まいめ)
御幸橋西詰(みゆきばしにしづめ)(午前11時()(ころ))

1枚目(まいめ)の写真を撮影(さつえい)した後、人々に近寄(ちかよ)って撮影(さつえい)した写真です。派出所(はしゅつじょ)前から御幸橋(みゆきばし)上の両側は死者、負傷者(ふしょうしゃ)()まっていました。負傷者(ふしょうしゃ)は、夕方から軍のトラックで宇品(うじな)似島(にのしま)へ運ばれました。

【5枚目(まいめ)
罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)を書く警察官(けいさつかん)(午後4時((また)は5時)()(ころ) 皆実町(みなみまち)三丁目専売局(せんばいきょく)(かど))

宇品(うじな)警察署(けいさつしょ)の藤田巡査(じゅんさ)は、自ら負傷(ふしょう)しながらも被災者(ひさいしゃ)罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)を発行しました。罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)があれば非常(ひじょう)用の救援(きゅうえん)食糧(しょくりょう)や生活必需品(ひつじゅひん)などを受け取ることができました。

【3枚目(まいめ)
爆風(ばくふう)損傷(そんしょう)した理髪店(りはつてん)(午後2時(ころ) 翠町(みどりまち))

爆心地(ばくしんち)から約2、600mにあたる松重さんの住居(じゅうきょ)の一画で、(つま)のスミ()さんが理髪店(りはつてん)(いとな)んでいました。この地域(ちいき)は、火災(かさい)からは(まぬが)れましたが、爆風(ばくふう)による損傷(そんしょう)(さん)たんたるものでした。スミ()さんが貴重品(きちょうひん)の整理をしています。

所蔵(しょぞう)/中国新聞社

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-1945.8.6 その日からの私-