語り()ぐために

 爆心地(ばくしんち)から160mの位置にありながら奇跡的(きせきてき)倒壊(とうかい)(まぬが)れた原爆(げんばく)ドーム。その残骸(ざんがい)を記念物として残すか取り(こわ)すかについては、当初から市民の意見が分かれていた。被爆(ひばく)から十数年を経過(けいか)し、倒壊(とうかい)危機(きき)(ひん)したドームの保存(ほぞん)工事を(めぐ)って、賛否(さんぴ)論争(ろんそう)本格化(ほんかくか)した。
 保存(ほぞん)が決まり、工事のための募金(ぼきん)集めが全国的な平和運動へと発展(はってん)する過程(かてい)で、人々は、原爆(げんばく)悲劇(ひげき)を伝えることの意味を考え、行動する勇気を(あた)えられた。ドーム保存(ほぞん)をめぐる論争(ろんそう)は、被爆(ひばく)体験(たいけん)継承(けいしょう)そのものをめぐる論争(ろんそう)でもあった。


被爆(ひばく)資料(しりょう)保存(ほぞん)

 昭和24(1949)年、中央公民館の一角に原爆(げんばく)参考(さんこう)資料(しりょう)陳列室(ちんれつしつ)(もう)けられ、その後、同館に隣接(りんせつ)して原爆(げんばく)記念館が建てられた。ここで資料(しりょう)収集(しゅうしゅう)と研究に当たっていた長岡(ながおか)省吾(しょうご)()が、昭和30(1955)年に開館した広島平和記念資料館(しりょうかん)の初代館長に就任(しゅうにん)する。開館当初の展示(てんじ)資料(しりょう)は少なかったが、その後、寄贈(きぞう)(もう)()みが相次いだ。


初期の展示(てんじ)風景

昭和42(1967)年 中島町

透明(とうめい)なガラスケースに(なら)被爆(ひばく)(かわら)被爆(ひばく)石。開館後、市民から家族の遺品(いひん)等の寄贈(きぞう)()え、資料(しりょう)充実(じゅうじつ)が図られた。


衣服を見る少年

昭和45(1970)年 中島町

自分のものと同じ大きさの衣服を見る少年。焼け()げた衣服に、少年は何を感じただろう。

原爆(げんばく)記念館を(おとず)れたモンローとディマジオ(写真下)

昭和29(1954)年2月9日 基町(もとまち)

中央公民館に隣接(りんせつ)する原爆(げんばく)記念館を、新婚(しんこん)旅行(りょこう)中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオが(おとず)れ、被爆(ひばく)後の街のパノラマ模型(もけい)被爆(ひばく)(かわら)などの資料(しりょう)を見学した。



平和記念資料館(しりょうかん)建設(けんせつ)開始

昭和26(1951)年 昭和42(1967)年 中島町

昭和26(1951)年2月、平和記念資料館(しりょうかん)建設(けんせつ)が始まった。かつて寺や墓地(ぼち)のあった場所に、小さな石仏(いしぼとけ)が残されていた。

原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)

 昭和40(1965)年、劣化(れっか)が進んだ原爆(げんばく)ドームを守るための本格的(ほんかくてき)調査(ちょうさ)が行われ、昭和41(1966)年、広島市議会は満場(まんじょう)一致(いっち)保存(ほぞん)を決議、工事のための募金(ぼきん)運動が始まった。国内外から多くの善意(ぜんい)()せられ、目標の4,000万円を上回る6,600万円が集まった。昭和42(1967)年8月に第1回保存(ほぞん)工事を完了(かんりょう)。平成2(1990)年3月に第2回<保存(ほぞん)工事、平成15(2003)年3月に第3回保存(ほぞん)工事を終えている。

爆風(ばくふう)(かたむ)いた壁面(へきめん)

昭和25(1950)年 大手町一丁目

爆風(ばくふう)により()し出されるように(かたむ)いた西側の壁面(へきめん)。第1回保存(ほぞん)工事の(さい)、この部分を垂直(すいちょく)(もど)すのが最も困難(こんなん)な作業となった。

 

被爆(ひばく)直後のドーム

昭和20(1945)年 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目)

被爆(ひばく)直後の原爆(げんばく)ドームを元安川対岸から見る。ドーム周辺には、(こわ)れた(かべ)や石柱が積み重なっている。

修学(しゅうがく)旅行(りょこう)(せい)(おとず)れる(写真左)

昭和27(1952)年 大手町一丁目

かつては見学者も敷地(しきち)内に入ることができた。年月を()るにつれ危険(きけん)状態(じょうたい)となったため、昭和37(1962)年以降(いこう)、周囲に金網(かなあみ)()られ、立ち入り禁止(きんし)となった。


風化が進む

昭和40(1965)年 大手町一丁目

壁面(へきめん)亀裂(きれつ)が広がり危険(きけん)状態(じょうたい) となったドーム。昭和40(1965)年、広島市は、広島大学工学部(こうがくぶ)建築学(けんちくがく)教室に依頼(いらい)し、本格的(ほんかくてき)強度(きょうど)調査(ちょうさ)実施(じっし)した。

保存(ほぞん)が決まる

昭和41(1966)年 中島町

昭和35(1960)年から、いち早く原爆(げんばく)ドームの保存(ほぞん)運動を開始した「広島折鶴(おりづる)の会」。昭和41(1966)年8月6日、「原爆(げんばく)ドーム保存(ほぞん)決定(けってい)報告(ほうこく)少年少女慰霊(いれい)の集い」を行った。

第1回保存(ほぞん)工事(写真右上・下)

昭和42(1967)年 大手町一丁目

4月10日から8月5日まで行われた第1回保存(ほぞん)工事。工事費5,150万円は全額(ぜんがく)募金(ぼきん)でまかなわれた。

 

保存(ほぞん)工事前

昭和42(1967)年 大手町一丁目

風雨にさらされ、崩壊(ほうかい)危機(きき)(ひん)していた。

保存(ほぞん)工事後

昭和42(1967)年 大手町一丁目

崩壊(ほうかい)(ふせ)ぐと同時に、被爆(ひばく)後の惨状(さんじょう)可能(かのう)(かぎ)りとどめるよう、当時としては最先端(さいせんたん)技術(ぎじゅつ)駆使(くし)した工事であった。