爆心地(ばくしんち)から160mの位置にありながら奇跡的(きせきてき)に倒壊(とうかい)を免(まぬが)れた原爆(げんばく)ドーム。その残骸(ざんがい)を記念物として残すか取り壊(こわ)すかについては、当初から市民の意見が分かれていた。被爆(ひばく)から十数年を経過(けいか)し、倒壊(とうかい)の危機(きき)に瀕(ひん)したドームの保存(ほぞん)工事を巡(めぐ)って、賛否(さんぴ)の論争(ろんそう)が本格化(ほんかくか)した。 保存(ほぞん)が決まり、工事のための募金(ぼきん)集めが全国的な平和運動へと発展(はってん)する過程(かてい)で、人々は、原爆(げんばく)の悲劇(ひげき)を伝えることの意味を考え、行動する勇気を与(あた)えられた。ドーム保存(ほぞん)をめぐる論争(ろんそう)は、被爆(ひばく)体験(たいけん)の継承(けいしょう)そのものをめぐる論争(ろんそう)でもあった。
昭和24(1949)年、中央公民館の一角に原爆(げんばく)参考(さんこう)資料(しりょう)陳列室(ちんれつしつ)が設(もう)けられ、その後、同館に隣接(りんせつ)して原爆(げんばく)記念館が建てられた。ここで資料(しりょう)の収集(しゅうしゅう)と研究に当たっていた長岡(ながおか)省吾(しょうご)氏(し)が、昭和30(1955)年に開館した広島平和記念資料館(しりょうかん)の初代館長に就任(しゅうにん)する。開館当初の展示(てんじ)資料(しりょう)は少なかったが、その後、寄贈(きぞう)の申(もう)し込(こ)みが相次いだ。
昭和40(1965)年、劣化(れっか)が進んだ原爆(げんばく)ドームを守るための本格的(ほんかくてき)な調査(ちょうさ)が行われ、昭和41(1966)年、広島市議会は満場(まんじょう)一致(いっち)で保存(ほぞん)を決議、工事のための募金(ぼきん)運動が始まった。国内外から多くの善意(ぜんい)が寄(よ)せられ、目標の4,000万円を上回る6,600万円が集まった。昭和42(1967)年8月に第1回保存(ほぞん)工事を完了(かんりょう)。平成2(1990)年3月に第2回<保存(ほぞん)工事、平成15(2003)年3月に第3回保存(ほぞん)工事を終えている。