朝焼けに()かぶ原爆(げんばく)ドーム 昭和24(1949)年 大手町一丁目

朝の光を()に受け、(あざ)やかに()かびあがる原爆(げんばく)ドーム。暗雲に向かって立ちはだかる姿(すがた)は、強く美しい。原爆(げんばく)ドームはこれからも、ヒロシマを見守り、世界の人々に原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さや戦争の(おろ)かさを(うった)え続けることだろう。

おわりに

原爆(げんばく)のせいで」「原爆(げんばく)さえなければ」この言葉を()()んで、ヒロシマの人々は生きた。家族、財産(ざいさん)、健康な体、全てを(うば)()った原爆(げんばく)(ゆる)せるはずはない。しかし、少なくとも(かれ)らが子どもたちに伝えたいと願ったのは、(いか)りや(にく)しみではなく、命を大切に生きること、他者の(いた)みを思いやることではなかっただろうか。
 「他の(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」。(かく)兵器(へいき)廃絶(はいぜつ)と世界恒久(こうきゅう)平和を希求するヒロシマの願いは、被爆(ひばく)を体験した人々の(たましい)(さけ)びである。短い言葉の(おく)に、壮絶(そうぜつ)記憶(きおく)と、(むね)()()けるような悲しみがある。廃虚(はいきょ)と化した街で、貧困(ひんこん)空腹(くうふく)()え生き()いた日々、繁栄(はんえい)する都市の片隅(かたすみ)で、絶望(ぜつぼう)孤独(こどく)(なや)み苦しんだ日々がある。
 孤独(こどく)な老人の眼差(まなざ)しが、うつむいた遺族(いぞく)背中(せなか)が、(かたむ)いた慰霊碑(いれいひ)が、無言で何かを(うった)えている。佐々木氏の膨大(ぼうだい)な写真記録は、これらの声なき(さけ)びを伝えるために生まれたと言えるだろう。
 先人の意思を受け()ぎ、(わたし)たちは平和記念都市広島の建設(けんせつ)に取り組んでいる。その努力の過程(かてい)にこそ平和記念都市(とし)建設(けんせつ)意義(いぎ)があることも、佐々木氏の写真は教えてくれた。ヒロシマの願いを(むね)(きざ)み、核兵器(かくへいき)のない平和な世界を(きず)くため、力の(かぎ)りを()くすことを、(わたし)たちは心に(ちか)わねばならない。

■ご協力いただいた方々(敬称略順不同)
佐々木喜代美 塩浦雄悟 土屋秀子 朝日新聞社 中国新聞社 毎日新聞社