原爆(げんばく)ドームが見たヒロシマ

 佐々木氏は、美しい広島県産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)の建物に、(おさな)いころから特別な愛着を(いだ)いていた。「その建物が、原爆(げんばく)にやられて無残な姿(すがた)で立っている。泣いているようでもある。(おこ)っているようにも見える。何かを(うった)えているようにも思える。」(佐々木雄一郎『写真記録 ヒロシマ25年』朝日新聞社)
 原爆(げんばく)ドームは、ヒロシマの戦後を見守り続けてきた。
 その姿(すがた)に、佐々木氏は自分自身を見ていたのかも知れない。


花火大会 昭和30(1955)年 元安川
昭和27(1952)年に始まった「ひろしま川祭り」の花火大会。合わせて水上音楽会も開かれた。

爆心地付近(ばくしんちふきん)

昭和20(1945)年
細工町(現在(げんざい)の大手町一丁目)

原爆(げんばく)ドームの東、住宅(じゅうたく)や商店が(のき)を連ねていた一帯は、爆風(ばくふう)火災(かさい)により廃虚(はいきょ)と化した。

猿楽町(さるがくちょう)の子どもたち

昭和25(1950)年
猿楽町(現在の大手町一丁目)

原爆(げんばく)により壊滅(かいめつ)した猿楽町(さるがくちょう)にも、家が建ち、路地で遊ぶ子どもの姿(すがた)(もど)ってきた。

川で洗濯(せんたく)

昭和23(1948)年
本川町

(あら)(おけ)(かか)えた女性(じょせい)が元安川右岸を歩いて行く。当時は川で洗濯(せんたく)するのも(めずら)しい光景ではなかった。

川沿(かわぞ)いのバラック

昭和29(1954)年
中島町

平和記念公園の完成が間近になっても、ドーム対岸には、バラックが残っていた。