悲しみと決意

 今日を生きることに精一杯(せいいっぱい)だった人々は、次第に落ち着きを取り(もど)していく()らしの中で、()くなった家族や同僚(どうりょう)を思い起こし、悲しみを新たにした。
 (めぐ)り来る8月6日は、残された人々が、犠牲者(ぎせいしゃ)冥福(めいふく)(いの)り、平和の(とうと)さを心に(きざ)む日となった。佐々木氏は、毎年この時期の平和記念公園を(おとず)れ、(いの)りを(ささ)げる人々の姿(すがた)を記録した。


犠牲者(ぎせいしゃ)(いた)

昭和21(1946)年、現在(げんざい)の平和記念公園北端部(ほくたんぶ)に、戦災(せんさい)死没者(しぼつしゃ)供養塔(くようとう)納骨堂(のうこつどう)礼拝堂(れいはいどう)が完成し、被爆(ひばく)直後から保管(ほかん)されていた身元不明の遺骨(いこつ)(おさ)められた。爆心地(ばくしんち)周辺の建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)などで多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出した場所にも、職域(しょくいき)、学校、地域(ちいき)ごとの供養塔(くようとう)が建てられた。

 

戦災(せんさい)死没者 (しぼつしゃ)供養塔(くようとう)(写真左)

昭和25(1950)年 中島町

昭和21 (1946)年1月に発足した広島市戦災(せんさい)死没者(しぼつしゃ)供養会(くようかい)浄財(じょうざい)を集め、昭和21(1946)年春、慈仙寺鼻(じせんじはな)現在(げんざい)の平和記念公園北端部(ほくたんぶ))に、(かり)納骨堂(のうこつどう)供養塔(くようとう)を建てた。

遠方から(おとず)れた遺族(いぞく)

昭和26(1951)年 中島町

戦災(せんさい)死没者(しぼつしゃ)供養塔(くようとう)前で(もく)とうする人々。足元に置かれた旅行(りょこう)(かばん)が、遠方から(おとず)れた家族であることを物語っている。
   

墓石(ぼせき)

昭和42(1967)年 大手町一丁目

墓石(ぼせき)(きざ)まれた「原爆(げんばく)()」の文字。(とうと)い命が突然(とつぜん)(うば)()られた悲劇(ひげき)を後世に伝えている。

原爆(げんばく)ドームに立つ供養塔(くようとう)(写真右)

昭和27(1952)年 大手町一丁目

被爆(ひばく)当時、ここで事務(じむ)を行っていた内務省(ないむしょう)中国四国土木出張所職員(しょくいん)供養塔(くようとう)。昭和29(1954)年に弔歌(ちょうか)(きざ)んだ石碑(せきひ)が建てられた。

遺骨(いこつ)は今も

 都市の再建(さいけん)が進むにつれ、平和記念公園等の工事(こうじ)現場(げんば)では、焼け()げた地層(ちそう)から、たびたび遺骨(いこつ)出現(しゅつげん)した。これらの遺骨(いこつ)も、原爆(げんばく)供養塔(くようとう)(おさ)められた。氏名不詳(ふしょう)のものがほとんどであったが、氏名が判明(はんめい)しても引き取り手のない遺骨(いこつ)もあった。広島市は原爆(げんばく)供養塔(くようとう)納骨(のうこつ)名簿(めいぼ)死没者(しぼつしゃ)名簿(めいぼ)等を公開し、縁故者(えんこしゃ)に関する情報(じょうほう)を求めた。


平和記念公園から出土した遺骨(いこつ)

昭和30(1955)年 中島町

平和記念公園の工事中、食器のかけらや黒焦(くろこ)げになった家財(かざい)道具とともに、多くの遺骨(いこつ)掘り出(ほりだ)された。かつてここに、にぎやかな街があり、たくさんの人が ()らしていたことを、改めて思い起こさせる出来事であった。
 

河床(かわどこ)に残る遺骨(いこつ)

昭和23(1948)年 元安川

8月6日の平和祭のために建てられた平和塔(へいわとう)を元安川左岸から見る。被爆(ひばく)から3年を()ても、河床(かわどこ)には遺骨(いこつ)が残っていた。

23年目の再開(さいかい)  

昭和43(1968)年 中島町


①7月20日、原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)供養塔(くようとう)納骨(のうこつ)名簿(めいぼ)公開(こうかい)閲覧(えつらん)会場。母親は23年前に原爆(げんばく)で失った息子の名前を見つけた。

遺骨(いこつ)引き(わた)しの手続中、マスコミの取材を受ける。

③8月1日、原爆(げんばく)供養塔(くようとう)前で遺骨(いこつ)を受取る。
    ④息子の遺骨(いこつ)(ひざ)()く。母親は最後まで(なみだ)を見せなかった。

■8月6日

昭和21(1946)年8月5日に基町(もとまち)の市民広場で「平和復興(ふっこう)市民大会」が開かれ、約7,000人の市民が集まった。昭和22(1947)年8月6日には、原爆(げんばく)ドーム対岸の平和広場で、第1回「広島平和祭」が開催(かいさい)され、昭和24(1949)年の第3回まで続いた。昭和25(1950)年にいったん中止となるが、昭和26(1951)年には「慰霊式(いれいしき)ならびに平和記念式」として復活(ふっかつ)。昭和27(1952)年以降(いこう)は、原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)前で開催(かいさい)され、現在(げんざい)の「原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊式(いれいしき)(なら)びに平和祈念式(きねんしき)(平和記念式典)」に引き()がれている。


第1回平和祭

昭和22(1947)年 中島町

原爆(げんばく)ドーム対岸の平和広場で開催(かいさい)された第1回平和祭。広島市長が平和宣言(せんげん)を読み上げ、8時15分に平和の(かね)を打ち鳴らした。
 

第3回平和祭

昭和24(1949)年 基町(もとまち)

平和記念公園と記念館の設計(せっけい)競技(きょうぎ)において、当時東京大学助教授(じょきょうじゅ)であった丹下(たんげ)健三(けんぞう)のグループが一等入選した。第3回平和祭において、その発表と表彰(ひょうしょう)が行われた。



慰霊碑(いれいひ)前での平和記念式典

昭和27(1952)年 中島町

原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)前で開催(かいさい)された最初の平和記念式典。参列者は、1,000人程度(ていど)であった。慰霊碑(いれいひ)背後(はいご)のバラックの間にまん(まく)()られている。

参加者の()えた平和記念式典

昭和34(1959)年 中島町

第5回原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)世界大会が広島で開催(かいさい)された昭和34(1959)年、参列者は3万人に達した。