ヒロシマの願い

 昭和26(1951)年のサンフランシスコ平和条約(じょうやく)締結(ていけつ)翌年(よくねん)発効(はっこう)により、言論(げんろん)規制(きせい)したプレスコードが解除(かいじょ)され、報道(ほうどう)芸術(げいじゅつ)活動において原爆(げんばく)を自由に表現(ひょうげん)できるようになった。
 昭和29(1954)年には、マグロはえ(なわ)漁船(ぎょせん)第五福竜丸(ふくりゅうまる)がアメリカの水爆(すいばく)実験(じっけん)()ばくする事件(じけん)が発生。日本全国で原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)を求める声が上がり、ヒロシマ・ナガサキへの関心も高まった。


■広がる動き

 詩・小説を始め、絵画、演劇(えんげき)映画(えいが)等により、原爆(げんばく)惨禍(さんか)被爆者(ひばくしゃ)の苦しみを(えが)いた作品が発表された。原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)を求める署名(しょめい)運動が全国各地で展開(てんかい)され、広島でも、核実験(かくじっけん)抗議(こうぎ)する(すわ)()み等の新たな運動が始まった。
 一方、8月6日前後の平和記念公園周辺には反戦・反核(はんかく)を求めるプラカードを(かか)げた団体(だんたい)が全国から集まるようになり、騒然(そうぜん)とした雰囲気(ふんいき)戸惑(とまど)被爆者(ひばくしゃ)もいた。

 

映画(えいが)原爆(げんばく)の子」の撮影(さつえい)(写真左)

昭和27(1952)年 大手町一丁目

映画(えいが)原爆(げんばく)の子」のロケーション撮影(さつえい)が、広島市内で行われた。原爆(げんばく)ドームを囲む(かべ)に乗る出演者(しゅつえんしゃ)の子どもたち。

(すわ)()み(写真右)

昭和32(1957)年 中島町

イギリスによるクリスマス島での(かく)実験(じっけん)計画に反対し、原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)前で初の(すわ)()みが行われた。参加者は4名。慰霊碑(いれいひ)()を向けずに(すわ)っている。
 

舞踏(ぶとう)(げき)「ノーモアヒロシマズ」の上演(じょうえん)(写真左) 

昭和27(1952)年 八丁堀(はっちょうぼり)

商店街に置かれた舞踏(ぶとう)(げき)「ノーモアヒロシマズ」の看板(かんばん)創作(そうさく)バレエ、日本舞踊(ぶよう)演劇(えんげき)など、原爆(げんばく)を題材とした作品が数多く上演(じょうえん)された。

原爆(げんばく)の子の(ぞう)除幕式(じょまくしき)(写真右)

昭和33(1958)年 中島町

原爆(げんばく)の子の(ぞう)建設(けんせつ)のため、国内の3,000校を()える学校をはじめ、海外からも募金(ぼきん)()せられた。昭和33(1958)年5月5日の子どもの日、除幕式(じょまくしき)が行われた。
 

平和記念公園のデモ隊(写真左)

昭和46(1971)年 中島町

原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)を求める運動は、労働運動や学生運動と結びつき、政治的(せいじてき)対立(たいりつ)が生じる中で、次第に(はげ)しさを()した。

■静かな(いの)

8月6日。平和記念公園は、夜明け前から深夜まで、鎮魂(ちんこん)(いの)りに満たされる。市街のビルの一角に、花を(そな)え手を合わせる人の姿(すがた)がある。この日だけではない。照りつける日差しの下、()りしきる雪の中、慰霊碑(いれいひ)供養塔(くようとう)参拝(さんぱい)する人は後を()たない。静かな(いの)りに、ヒロシマの願いの原点がある。






雪の中

昭和42(1967)年 中島町

()りしきる雪の中、原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)(おとず)れた人々。

8月6日8時15分(写真左)

昭和40(1965)年 中島町

平和記念式典会場で、原爆(げんばく)投下(とうか)時刻(じこく)の8時15分、平和の(かね)を合図に(もく)とうを(ささ)げる参列者。外国人の姿(すがた)も見える。


8月6日早朝

昭和40(1965)年 中島町

夜明けとともに原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)に花を手向け、手を合わせる人々。ヒロシマの(いの)りの一日が始まる。

夕暮(ゆうぐ)れの慰霊碑(いれいひ)(写真左)

昭和43(1968)年 中島町

日没(にちぼつ)後、人影(ひとかげ)もまばらになった平和記念公園。原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)に、静かな(いの)りが(ささ)げられる。


広島銀行協会前

昭和45(1970)年 大手町二丁目

8月6日、母は毎年この場所を(おとず)れる。(むすめ)()くなったビルの入口に花を(そな)え、そっと手を合わせる。