ヒロシマで何が起こったか

 市井(しせい)のカメラマンである佐々木氏にとっては、物資(ぶっし)(とぼ)しい時代、フィルムを手に入れることさえ容易(ようい)ではなかった。それでも佐々木氏(ささきし)は、来る日も来る日も、撮影(さつえい)に出かけた。ヒロシマで何が起こったか、その後、人々はどう生き、街はどう変化するのか。佐々木氏は、その様子を克明(こくめい)に記録した。


壊滅(かいめつ)の記録

 たった一発の原爆(げんばく)で広島の街は灰燼(かいじん)に帰した。その惨状(さんじょう)は、佐々木氏がかつて撮影(さつえい)した東京大空襲(だいくうしゅう)()(あと)とは明らかに(こと)なっていた。石やコンクリートに残された被爆(ひばく)痕跡(こんせき)が、強烈(きょうれつ)な熱線とすさまじい爆風(ばくふう)威力(いりょく)を物語っている。

中島本町から西方を望む

昭和20(1945)年 中島本町(現在(げんざい)の中島町 爆心地(ばくしんち)から約350m)

中島本町から西に一面の焼け野原を見渡(みわた)す。遠方中央の四角い建物は、戦後廃校(はいこう)となった光道(こうどう)国民学校。

爆風(ばくふう)()し曲げられた(かべ)

昭和29(1954)年
国泰寺町(こくたいじちょう)現在(げんざい)の国泰寺町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約1,020m)

広島市役所本庁舎(ぼんちょうしゃ)西側(にしがわ)の車庫の(かべ)爆風(ばくふう)圧力(あつりょく)(はげ)しく()し曲げられている。

人影(ひとかげ)の石

昭和22(1947)年
紙屋町(現在(げんざい)の紙屋町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約260m)

住友銀行(すみともぎんこう)広島支店入口の石段(いしだん)。石の表面は強烈(きょうれつ)な熱線を受けて白くなり、(すわ)っていた人の(かげ)が黒く残った。

全焼した 被爆電車(ひばくでんしゃ)

昭和20(1945)年 鷹匠町(たかじょうまち)(現在の本川町二丁目 爆心地(ばくしんち)から約600m)

被爆(ひばく)した電車が道路脇(どうろわき)()せられている。車体は完全に焼け落ち、車底部分のみが残っている。

道路工事と乳母車(うばぐるま)

昭和29(1954)年
銀山町(かなやまちょう)

日興証券(にっこうしょうけん)広島支店前の工事現場(げんば)で働く女性(じょせい)。作業の合間に、乳母車(うばぐるま)で連れてきた子どもをあやしている。

拡幅(かくふく)工事中の相生通り

昭和28(1953)年 八丁堀(はっちょうぼり)より

福屋(ふくや)百貨店(ひゃっかてん)旧館(きゅうかん)より西方を見る。()退()きの(おく)れた家屋が残るため舗装(ほそう)が進まず、雨が()ればすぐにぬかるみ、人々を(なや)ませた。

苦難(くなん)の日々

廃虚(はいきょ)と化した広島の復興(ふっこう)は、家を失った人々が、()(のこ)った(かわら)やトタン板を集め、自力でバラックを建てることから始まった。広島市は、昭和21(1946)年秋に広島復興(ふっこう)都市(とし)計画を策定(さくてい)し、再建(さいけん)に取り組むが、極度の財政難(ざいせいなん)により事業は停滞(ていたい)した。この状況(じょうきょう)を打開したのが、昭和24(1949)年に制定(せいてい)された広島平和記念都市(とし)建設法(けんせつほう)であった。しかし、幹線(かんせん)道路や繁華街(はんかがい)整備(せいび)が進む一方、市民の住宅(じゅうたく)不足(ぶそく)はなかなか解消(かいしょう)されなかった。

()(あと)復旧(ふっきゅう)作業(さぎょう)(写真右)

昭和22(1947)年 胡町(えびすちょう)

福屋(ふくや)百貨店(ひゃっかてん)南側で瓦礫(がれき)片付(かたづ)け、整地を行う人々。()(あと)復旧(ふっきゅう)には、被爆者(ひばくしゃ)復員(ふくいん)軍人(ぐんじん)等の日雇(ひやと)い労働者が従事(じゅうじ) した。

半壊(はんかい)の家屋(写真左)

昭和28(1953)年 段原(だんばら)大畑町(おおはたちょう)現在(げんざい)段原(だんばら)一丁目)

爆風(ばくふう)により、街路樹(がいろじゅ)(かたむ)き、民家の(かべ)(くず)れ落ちている。被爆(ひばく)から8年を()ても、(こわ)れた家で()らす人は多かった。

老朽化(ろうきゅうか)するバラック

昭和42(1967)年 基町(もとまち)

緑地帯となるはずの本川(ほんかわ)河岸(かがん)には、無許可(むきょか)で建てられたバラックが密集(みっしゅう)していた。度重なる火災(かさい)再開発(さいかいはつ)を求める声が高まった。

■変わりゆく街

昭和27(1952)年に決定された広島平和記念都市(とし)建設(けんせつ)計画(けいかく)(もと)づき、道路や公園緑地、平和記念施設(しせつ)建設(けんせつ)が進んだ。資金(しきん)資材(しざい)・人材の不足、土地区画整理をめぐる問題など数々の困難(こんなん)()()えながら、広島は復興(ふっこう)から発展(はってん)の時代を歩み始めた。


相生橋

昭和20(1945)年

相生橋上流側。水面に反射(はんしゃ)した爆風(ばくふう)が歩道を()し上げたため、欄干(らんかん)は川に落下し、歩道と車道の間に隙間(すきま)ができた。

昭和42(1967)年

昭和24(1949)年に本格的(ほんかくてき)修復(しゅうふく)工事を終えた相生橋。橋に続く相生通りも拡幅(かくふく)されている。

紙屋町交差点

昭和25(1950)年

紙屋町交差点から南を見る。鯉城(りじょう)通りの拡幅(かくふく)が進み、歩道も(もう)けられている。

昭和36(1961)年

車両の通行が()えた交差点には、交通(こうつう)事故(じこ)発生(はっせい)件数(けんすう)表示塔(ひょうじとう)が立っている。

広島駅

昭和27(1952)年

原爆(げんばく)によって内部を全焼(ぜんしょう)した広島駅は、昭和24(1949)年から本格的(ほんかくてき)復旧(ふっきゅう)工事が始まり、旧駅舎(きゅうえきしゃ)前に木造(もくぞう)の出札室が増築(ぞうちく)された。

昭和45(1970)年

昭和40(1965)年12月に完成した広島ステーションビル。