()えて生きる

昭和24(1949)年に制定(せいてい)された広島平和記念都市(とし)建設法(けんせつほう)は、広島市の復興(ふっこう)軌道(きどう)に乗せた。しかし、被爆者(ひばくしゃ)に対する補償(ほしょう)援護(えんご)の問題は、長い間放置されたままであった。(きず)ついた人々は、家族を失った悲しみ、健康や生活の不安を、(だれ)かに打ち明けることも助けを求めることもできなかった。


孤独(こどく)と不安

原爆(げんばく)で肉親を失った子どもを保護(ほご)するため、広島市は被爆(ひばく)から2日後に比治山(ひじやま)戦災児(せんさいじ)収容所(しゅうようじょ)(もう)けた。その後も、公私(こうし)施設(しせつ)が子どもたちを受け入れた。
子どもを失い、心の(ささ)えを無くし、健康や生活に対する不安をつのらせながら老いていく人々もいた。最初の原爆(げんばく)養護(ようご)ホーム「舟入(ふないり)むつみ園」が開設(かいせつ)されたのは、被爆(ひばく)から25年を()た昭和45(1970)年のことであった。

似島(にのしま) 学園の子どもたち(写真左)

昭和27(1952)年 似島(にのしま)

昭和21(1946)年、似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)(あと)に広島県戦災児(せんさいじ)教育所(きょういくじょ)似島(にのしま)学園(がくえん)開設(かいせつ)され、肉親を失った子どもたちを収容(しゅうよう)し育成・指導(しどう)にあたった。

光の園の子どもたち(写真右)

昭和24(1949)年 基町(もとまち)

原爆(げんばく)身寄(みよ)りをなくした子どもたちの保護(ほご)養育(よういく)を行っていた修道女(しゅうどうじょ)たちが、昭和23(1948)年、基町(もとまち)に「光の園摂理(せつり)の家」を開設(かいせつ)した。

とうかさんに来た老人(写真上)

昭和29(1954)年 三川町

原爆(げんばく)片目(かため)視力(しりょく)と家族を失った老人。人の多いにぎやかな場所を求めて、「とうかさん」の夏祭りを(おとず)れていた。

(つえ)をつく老女(写真下)

昭和26(1951)年
西平塚町(にしひらつかちょう)

戸外で食事の支度(したく)をしていた一人暮(ひとりぐ)らしの老女。次第に自由が利かなくなる身体を、(つえ)(ささ)えて生きている。

(きず)ついた身心

原爆(げんばく)は、被爆者(ひばくしゃ)の体と心に深い(きず)を残した。火傷(やけど)(あと)やケロイドの苦しみに加えて、原爆症(げんばくしょう)伝染(でんせん)する、遺伝(いでん)するといった根拠(こんきょ)のないうわさが、不安や偏見(へんけん)()び、就職(しゅうしょく)結婚(けっこん)・出産をためらわせた。症状(しょうじょう)のない人も、突然(とつぜん)(おそ)いかかる後障害(こうしょうがい)への不安と(たたか)いながら()らしていた。被爆者(ひばくしゃ)専門(せんもん)医療(いりょう)施設(しせつ)である広島原爆(げんばく)病院が開設(かいせつ)されたのは昭和31(1956)年のことであった。



 

原爆(げんばく)1号の背中(せなか)(写真左)

昭和24(1949)年 千田町一丁目

自身のケロイドを見せて原爆(げんばく)被害(ひがい)(うった)え、アメリカの報道(ほうどう)関係者(かんけいしゃ)から「原爆(げんばく)1号」と()ばれた吉川(よしかわ)(きよし)()。昭和26(1951)年4月まで広島赤十字病院に入院。その後、被爆者(ひばくしゃ)組織(そしき)作りや平和運動に尽力(じんりょく)した。

 

夏服の女性(じょせい)

昭和28(1953)年 広島駅前

夏服姿(すがた)(わか)女性(じょせい)左腕(ひだりうで)痛々(いたいた)しいやけどの(あと)が残っている。傷跡(きずあと)(かく)すため、一年中長袖(ながそで)の衣服を着る人もいた。

川で遊ぶ少女

昭和27(1952)年 元安川

川辺で(すな)()って遊ぶ少女。火傷(やけど)(あと)が残る右腕(みぎうで)()ばすことができないため、左手だけで()っている。