よみがえる-1
市内の建物の多くが破壊(はかい)された中、被爆(ひばく)しながらも崩壊(ほうかい)(まぬか)れた建物は、補修(ほしゅう)して再び利用され、さまざまな面で市民の生活を支えました。橋や病院、学校などの公共(こうきょう)施設(しせつ)のみならず、金融(きんゆう)機関(きかん)百貨店(ひゃっかてん)の復活はヒロシマの復興(ふっこう)に欠かせないものでした。
ここでは、被爆(ひばく)直後の一時を除いて、戦後、被爆(ひばく)前と同じ用途によみがえった建物を紹介します。
東側から。校舎の左のくず折れた鉄骨は講堂の残骸(ざんがい)
撮影年月日不詳(1945(昭和20)年秋ごろ)。米軍撮影
本川小学校平和資料館。2008(平成20)年5月
本川小学校  1928(昭和3)年7月、本川(ほんかわ)尋常(じんじょう)高等小学校に、広島市内の公立小学校では最初の鉄筋(てっきん)コンクリート造り3階建ての校舎が建設されました。  被爆(ひばく)により、この校舎は外郭(がいかく)のみを残して全焼(ぜんしょう)し、児童約400名、教職員10余名の命が奪われました。奇跡(きせき)(てき)に生き残ったのは2人だけでした。焼けただれた残骸(ざんがい)は、被爆(ひばく)翌日から、臨時(りんじ)救護(きゅうご)(しょ)となりました。
 外郭(がいかく)だけの校舎でしたが、被爆(ひばく)翌年の1946(昭和21)年2月から授業が再開されました。1988(昭和63)年に、被爆(ひばく)した校舎を撤去(てっきょ)する際、一部を保存し、平和資料館として整備(せいび)しました。




■所在地 中区本川町一丁目5番39号
■爆心地からの距離 410メートル
■被爆時の名称 本川国民学校
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り3階建て、一部地下1階
■竣工時期 1928(昭和3)年
■竣工時の名称 本川尋常高等小学校
■現況 被爆した校舎の一部を平和資料館として保存し、利用

袋町小学校平和資料館。2008(平成20)年5月
袋町(ふくろまち)小学校  被爆(ひばく)により、ほとんどの教職員、児童の命が(うば)われわれ、生き残ったのは数人だけでした。唯一焼け残った西校舎は、避難(ひなん)場所や救護(きゅうご)(しょ)となり、児童・教職員や地域の人々の安否(あんぴ)(たず)ねる場となりました。人々は、床に散らばるわずかなチョークで()けた(かべ)に「伝言(でんごん)」を(しる)しました。


■所在地 中区袋町6番36号
■爆心地からの距離 460メートル
■被爆時の名称 袋町国民学校
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り3階建て、地下1階
■竣工時期 1937(昭和12)年
■竣工時の名称 袋町尋常高等小学校
■現況 被爆した校舎の一部を平和資料館として保存し、利用

臨時救護(きゅうご)(しょ)となった福屋に収容(しゅうよう)された兵士(へいし)たち
1945(昭和20)年8月9~12日
宮武甫撮影/朝日新聞社提供

福屋(ふくや)百貨店(ひゃっかてん)  原爆(げんばく)により、建物にいた多数が死傷(ししょう)し、軽傷者だけがかろうじて脱出できました。被爆(ひばく)直後の火災により内部は完全に焼失(しょうしつ)しました。外郭(がいかく)だけとなった建物は、血便(けつべん)など原爆(げんばく)(しょう)症状(しょうじょう)でありながら赤痢(せきり)患者(かんじゃ)診断(しんだん)された人たちの臨時(りんじ)伝染(でんせん)病院(びょういん)として約1か月間使用されました。
(はな)やかに登場(とうじょう)した新館(しんかん)。1938(昭和13)年 福屋提供
■所在地 中区胡町6番26号
■爆心地からの距離 710メートル
■被爆時の名称 福屋百貨店
■構造・階数 鉄骨鉄筋コンクリート造り8階建て、地下2階、塔屋2階
■竣工時期 1938(昭和13)年
■竣工時の名称 福屋百貨店(新館)
■現況 増改築を重ね、現在も店舗の一部として利用



濯纓池(たくえいち)に架かる太鼓橋(たいこばし)跨虹橋(ここうきょう)
1937(昭和12)年7月。上田華山撮影/藤永卓美提供

■所在地 中区上幟町2番11号
■爆心地からの距離 1,300メートル
■被爆時の名称 縮景園
■現況 被爆前の景観に復元
縮景園(しゅっけいえん)  広島藩主(はんしゅ)浅野(あさの)長晟(ながあきら)が、別邸(べってい)の庭として、1620(元和6)年に築成にとりかかりました。1940(昭和15)年に浅野家から広島県に寄付(きふ)され、同年国の名勝(めいしょう)に指定されました。市民からは「泉邸(せんてい)」として親しまれていました。
 原爆(げんばく)によって園内の建物や樹木の大半は失われました。避難(ひなん)先に指定されていたため、被爆(ひばく)直後から多くの被災(ひさい)者が避難(ひなん)し、ここで(いき)()えた人も多くいました。
 被爆(ひばく)直後に写された一枚の写真が手掛かりとなって園内を発掘(はっくつ)したところ、1987(昭和62)年8月1日に64柱の遺骨(いこつ)が発見されました。

  縮景園の池のほとり 【作者のことばから】
浅野の泉邸(縮景園)の池の(ふち)にはすき間なしにやけどのけが人が並んで水を飲んでいた。翌日見たら、同じように並んでみんな死んでいた。この人たちにとってこの池の縁が人生の最終到達(とうたつ)(てん)だったのだ。
1945(昭和20)年8月6日~7日。作者 小久保三好(当時17歳、絵を描いたとき74歳)