ヒロシマ壊滅

被災(ひさい)した防空作戦室の出入り口付近
1945(昭和20)年11月ごろ。
米軍撮影
広島城の一角、現在の護国(ごこく)神社(じんじゃ)の東側。
フェンスの向こうが半地下の旧防空作戦室の入り口です。
2008(平成20)年5月
中国軍管区(かんく)司令(しれい)()(あと)  基町の広島城城郭(じょうかく)一帯は、陸軍の施設(しせつ)集積(しゅうせき)し、本丸(ほんまる)下段にあった中国軍管区(かんく)司令(しれい)()には、比治山(ひじやま)高等(こうとう)女学校(じょがっこう)の3年生が学徒(がくと)通信(つうしん)(たい)として動員(どういん)されていました。ここでは、司令部の職員700余人と比治山(ひじやま)高等(こうとう)女学校(じょがっこう)の生徒・教員64人、拘置所(こうちしょ)の米軍捕虜(ほりょ)2人が死亡しました。
 比治山(ひじやま)高等(こうとう)女学校(じょがっこう)の生徒だった岡ヨシエさん(当時14歳)は、学徒(がくと)動員(どういん)で中国軍管区(かんく)司令(しれい)()防空作戦室に勤務(きんむ)していました。
 半地下の作戦室で被爆(ひばく)した岡さんは、しばらく気を失った後、外に出ました。海まで見渡せる壊滅(かいめつ)したヒロシマを見て、驚きました。作戦室に戻って、福山へヒロシマの様子(ようす)連絡(れんらく)しました。これが、広島からの「第一報(だいいっぽう)」と言われています。




■所在地 中区基町21番
■爆心地からの距離 790メートル
■被爆時の名称 中国軍管区司令部(防空作戦室)
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り半地下1階
■竣工時期 不詳 
■竣工時の名称 中国軍管区司令部(防空作戦室)
■現況 閉鎖。グループでの平和学習などの場合見学可

爆心(ばくしん)に生き残る

平和記念公園レストハウス  (きゅう)中島(なかじま)地区(ちく)は昭和初期には市内有数の繁華(はんか)な町でした。1929(昭和4)年、木造2階建ての多い旧中島地区に3階建ての大正(たいしょう)()呉服(ごふく)(てん)新築(しんちく)されました。屋上に上がると市内が一望できたといいます。1943(昭和18)年、呉服店は閉鎖され、燃料(ねんりょう)会館(かいかん)となりました。
 被爆(ひばく)時は37人が出勤(しゅっきん)していましたが、地下室に書類を取りに降りていた一人が奇跡(きせき)(てき)に命を取り()めた以外は全員が死亡(しぼう)しました。建物は大破(たいは)しましたが、戦後早い時期に木造の屋根が架けられるなどの補修(ほしゅう)がされました。
 戦後、広島市が買収し、戦後復興(ふっこう)の事務所が置かれ、現 在は平和記念公園レストハウスとして利用されています。


【写真】
大正屋呉服店の新築当時、北西(原爆(げんばく)の子の像)側のコーナーから
1929(昭和4)年3月。清水建設広島支店提供

■所在地 中区中島町1番1号
■爆心地からの距離 170メートル
■被爆時の名称 燃料会館
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り3階建て・地下1階
■竣工時期 1929(昭和4)年
■竣工時の名称 大正屋呉服店
■現況 1階は平和記念公園レストハウス、2・3階は事務所、地下はほぼ被爆(ひばく)当時のまま保存され、事前に連絡の上、見学可

命の架け橋

猿猴橋(えんこうばし)  1926(大正15)年に架けられた当時、猿猴橋(えんこうばし)は、にぎやかで華麗(かれい)な橋でした。親柱(おやばしら)には地球儀(ちきゅうぎ)の上に羽ばたくワシと照明が取り付けられ、高欄(こうらん)には(さる)のレリーフがありました。これらも、戦時中に供出され、石の親柱(おやばしら)欄干(らんかん)に変わり、現在に至っています。
 原爆(げんばく)により欄干(らんかん)の一部が破損(はそん)しましたが、構造(こうぞう)(てき)被害(ひがい)軽微(けいび)で、多くの人たちの避難(ひなん)()となりました。


【写真上】
1945(昭和20)年11月ごろ。米軍撮影

【写真下】
東詰めから。約60メートル北には駅前大橋が()かっています
写真右端の白いビルは「エールエールA館」。2008(平成20)年4月

■所在地 河川名:猿猴川、右岸:南区的場町一丁目、左岸:南区猿猴橋町
■爆心地からの距離 1,820メートル
■被爆時の名称 猿猴橋
■構造 鉄筋コンクリート桁
■竣工時期 1926(大正15)年
■竣工時の名称 猿猴橋
■現況 被爆当時のままの欄干