新たな活躍に向けて
 被爆(ひばく)後に残存(ざんそん)した建物の多くは、使用に()えないことや敷地(しきち)有効(ゆうこう)利用(りよう)のための建て替えなどにより、復興(ふっこう)過程(かてい)解体(かいたい)され、姿を消していきました。
   このため、市民から被爆(ひばく)建物の保存などを求める要望(ようぼう)が出され、1990(平成2)年3月に市議会で「この歴史的財産(ざいさん)後世(こうせい)の広島市民に伝承(でんしょう)すべきである」との決議(けつぎ)が行われました。そこで、広島市では1993(平成5)年に被爆(ひばく)建物(たてもの)(とう)保存(ほぞん)継承(けいしょう)実施(じっし)要綱(ようこう)を定め、爆心地(ばくしんち)から5キロメートル以内に現存する建物などを被爆(ひばく)建物台帳(だいちょう)登録(とうろく)し、所有(しょゆう)(しゃ)保存(ほぞん)継承(けいしょう)協力(きょうりょく)を呼び掛け、保存工事の際に費用(ひよう)助成(じょせい)を行っています。
 被爆(ひばく)建物としての使命(しめい)を持つ、3つの建物を紹介します。
竣工(しゅんこう)当時の日本銀行広島支店。1936(昭和11)年
清水建設広島支店提供
3階が全焼(ぜんしょう)しましたが、構造(こうぞう)(てき)被害(ひがい)はなく、被爆(ひばく)の翌々日から支払い業務(ぎょうむ)が行われました。1945(昭和20)年11月ごろ
川本俊雄撮影/広島原爆被災撮影者の会提供
(きゅう)日本銀行(にっぽんぎんこう)広島(ひろしま)支店(してん)  被爆(ひばく)の翌々日の8日には、早くも銀行の支払(しはら)業務(ぎょうむ)が開始されるとともに、被災(ひさい)して営業が不可能となった市内の金融(きんゆう)機関(きかん)(かり)営業(えいぎょう)(しょ)設置(せっち)され、金融(きんゆう)(めん)から広島の復興(ふっこう)を支えました。
 1992(平成4)年に日本銀行広島支店が中区基町(もとまち)に移転した後、2000(平成12)年から広島市が無償(むしょう)貸与(たいよ)を受け、本格的な活用を前に市民の文化活動の発表の場となっています。



■所在地 中区袋町5番21号
■爆心地からの距離 380メートル
■被爆時の名称 日本銀行広島支店
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り3階建て、地下1階
■竣工時期 1936(昭和11)年
■竣工時の名称 日本銀行広島支店
■現況 広島市が管理。本格的な活用を前に、市民の文化活動の発表の場


鯉城(りじょう)通りに外観(がいかん)を残す唯一(ゆいいつ)被爆(ひばく)建造(けんぞう)(ぶつ)です
2008(平成20)年5月

63年前の原爆(げんばく)爆風(ばくふう)により変形(へんけい)した鉄扉(てっぴ)。2008(平成20)年5月。
■所在地 南区出汐二丁目4番60号
■爆心地からの距離 2,670メートル
■被爆時の名称 広島陸軍被服支廠
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り・レンガ張り2階建て
■竣工時期 1913(大正2)年
■竣工時の名称 広島陸軍被服支廠
■現況 保存・活用を検討中
(きゅう)日本通運(にほんつううん)倉庫(そうこ)(とう)  被服(ひふく)支廠(ししょう)は、軍服(ぐんぷく)軍靴(ぐんか)軍帽(ぐんぼう)など兵隊が身に付ける小物や附属品(ふぞくひん)(とう)生産(せいさん)修理(しゅうり)保管(ほかん)供給(きょうきゅう)する施設(しせつ)です。大規模な製造(せいぞう)修理(しゅうり)工場と保管(ほかん)供給(きょうきゅう)を行う倉庫(ぐん)がありました。現存(げんそん)しているのは、鉄筋(てっきん)コンクリート造りの倉庫が4棟です。
 原爆(げんばく)により、屋根に大きな損傷(そんしょう)を受けましたが、火災は(まぬか)れました。変形した鉄の(とびら)が、爆風(ばくふう)のすさまじさを語っています。被爆(ひばく)直後は、臨時(りんじ)救護(きゅうご)(しょ)となり、多くの被爆(ひばく)者が収容(しゅうよう)されました。



木下義治さんのズボン、ゲートル、地下(ぢか)足袋(たび)
山陽工業学校1年生の木下義治さん(当時13歳)は、爆心地(ばくしんち)から1,200メートルの雑魚(ざこ)(じょう)(ちょう)で建物疎開(そかい)作業中に被爆(ひばく)。父親の布哇一さん(当時47歳)は出張(しゅっちょう)先から急きょ帰宅、7日、出汐(でしお)(ちょう)の広島陸軍被服(ひふく)支廠(ししょう)で義治さんの遺体(いたい)を見つけました。大やけどを負って全身に包帯(ほうたい)が巻かれており、(どう)につけられていた荷札(にふだ)の名前で本人と確認しました。布哇一さんは遺体(いたい)大八車(だいはちぐるま)に乗せて連れ帰り、火葬(かそう)しました。
木下勝行寄贈

外郭(がいかく)を残して全焼(ぜんしょう)した広島文理科大学本館。1945(昭和20)年末ごろ
川本俊雄撮影/広島原爆被災撮影者の会提供


■所在地 中区東千田町一丁目1番89号
■爆心地からの距離 1,420メートル
■被爆時の名称 広島文理科大学(中国地方総監府)
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り3階建て
■竣工時期 1931(昭和6)年
■竣工時の名称 広島文理科大学本館
■現況 教育施設などとしての保存・活用を検討中
広島大学(きゅう)理学部(りがくぶ)1号館(ごうかん)  被爆(ひばく)により、本館は外郭(がいかく)だけを残し、内部を焼失(しょうしつ)しました。学生と教員の大半は向洋(むかいなだ)日本製鋼所(にほんせいこうしょ)などへ動員(どういん)されていたため、構内(こうない)にはいませんでしたが、一部理科系の学生と南方特別留学生(りゅうがくせい)などが被爆(ひばく)しました。
森戸(もりと)道路(どうろ)」と呼ばれた通路から、広島大学旧理学部1号館を見る。
2008(平成20)年5月