被爆(ひばく)建物は語る


63年前の原爆(げんばく)爆風(ばくふう)により変形(へんけい)した鉄扉(てっぴ)。南区出汐(でしお)二丁目の旧陸軍被服(ひふく)支廠(ししょう)
2008(平成20)年5月

はじめに

1945(昭和20)年8月6日、1発の原子爆弾(ばくだん)により、広島市内の建物の90パーセント以上が破壊(はかい)または焼失(しょうしつ)しました。がれきの街となったヒロシマで、形をとどめた建物は道しるべとなり、橋は重要な避難(ひなん)経路(けいろ)となりました。
 堅固(けんご)()木造の建物でも、倒壊(とうかい)こそ(まぬか)れたものの、爆風(ばくふう)で窓ガラスは吹き飛ばされ、熱線に焼かれ、骨格(こっかく)を残すのがやっとでした。命の(たて)となった建物は、傷ついた人々を受け入れ、戦後の復興を支えました。75年間は生えないと言われた草木もやがて新たな芽を吹き、市民に生きる勇気と希望を与えました。
 多くの被爆(ひばく)建物は、復興(ふっこう)過程(かてい)解体(かいたい)され、建て替えられていきましたが、60年以上の時を経て、今なお市内の各所には被爆(ひばく)惨状(さんじょう)を知る建物や樹木が残されています。
 被爆(ひばく)建物や樹木は核兵器を持ち続ける人類に、地球滅亡(めつぼう)危機(きき)だということを静かに、 しかし力強く(うった)え続けています。