よみがえる-2
職員の懸命(けんめい)な消火活動により、1階と地階は火災から(まぬか)れました。後方の4階建ては広島逓信(ていしん)(きょく)。1945(昭和20)年10月上旬
川本俊雄撮影/広島原爆被災撮影者の会提供
写真の手前部分に手術(しゅじゅつ)(しつ)が再現されています
2008(平成20)年4月
広島逓信病院(ていしんびょういん)  窓を大きく開けたデザインが特徴(とくちょう)の建物でしたが、爆風(ばくふう)によりガラスは吹き飛び、窓枠もアメのように曲がりました。被爆(ひばく)直後から大勢のら大勢(たいせい)負傷(ふしょう)(しゃ)殺到(さっとう)し、職員たちは昼夜を問わず懸命に救護に当たりました。


南側の外観(がいかん)。3階は日光浴(にっこうよく)室となっていました
1935(昭和10)年。1936(昭和11)年発行『国際建築』第12巻から

■所在地 中区東白島町19番16号
■爆心地からの距離 1,370メートル
■被爆時の名称 広島逓信病院
■構造・階数 鉄筋コンクリート造り2階建て、一部3階、地下1階
■竣工時期 1935(昭和10)年
■竣工時の名称 広島逓信診療所
■現況 旧外来棟の一部を保存。資料展示室と再現した手術室を見学可

爆心地(ばくしんち)側の旧発電棟。屋根がはぎとられています
1945(昭和20)年11月ごろ。米軍撮影爆
左の旧ボイラー棟は、現在事務所として使用されています
2008(平成20)年4月
広島電鉄千田(せんだ)(まち)変電(へんでん)(しょ)事務所(じむしょ)  広島で路面(ろめん)電車(でんしゃ)が走り始めたのは1912(大正元)年です。この2棟の建物は、開業(かいぎょう)時に発電(はつでん)(よう)のボイラーと発電(はつでん)()収容(しゅうよう)するために建設(けんせつ)されました。1934(昭和9)年、老朽(ろうきゅう)()により発電(はつでん)(しょ)廃止(はいし)され、変電(へんでん)(しょ)となっていました。
 原爆(げんばく)により屋根(やね)がはぎとられましたが、倒壊(とうかい)(まぬか)れ、被爆(ひばく)後の運行再開に重要(じゅうよう)役割(やくわり)()たしました。
 現在は、(きゅう)ボイラー(とう)(写真左側)は事務所として使用され、(まが)った小屋組(こやぐ)みを見ることができます。旧発電棟(写真右側)は今も変電所として活躍しています。



■所在地 中区東千田町二丁目9番29号
■爆心地からの距離 1,920メートル
■被爆時の名称 広島電鉄千田町変電所
■構造・階数 レンガ造り平屋建て、地下1階。2棟
■竣工時期 1912(大正元)年
■竣工時の名称 広島電気軌道火力発電所
■現況 写真の左側が事務所、右側が変電所

現在の中国電力付近を走っていた651号。後方が鷹野橋(たかのばし)方面(ほうめん)
(ばく)(ふう)により軌道(きどう)から大きくはずれています
1945(昭和20)年8月9日。岸田貢宜撮影/岸田哲平提供
■車両名 650形電車
■現況 4両が現存。2両の被爆電車が現在も運行。1両は江波車庫で保存され、1両は広島市交通科学館に展示

650形電車  被爆(ひばく)により、広島電鉄では従業(じゅうぎょう)(いん)211人が死亡し、電車も全車両123台のうち108台が被害(ひがい)を受けました。東京電信隊など約40名が応急処理にあたり、被爆3日後の8月9日には己斐から西天満(にしてんま)(ちょう) までの折り返し運転が開始され、多くの市民に希望を与えました。

        復旧(ふっきゅう)一番電車 【作者のことばから】
乗客(じょうきゃく)無口(むくち)な人が多く、「おお電車が動くんか」と(おどろ)かれる人。「鉄橋(てっきょう)(こわ)いけんのー」と有難(ありがた)がる人。「火傷(やけど)の人、斑点(はんてん)が見える人」と、色々でした。「()(がた)うございました」「()みません」と言い、電車(でんしゃ)(ちん)(はら)えない人も多かったように思います。(『電車内被爆者の証言』広島電鉄株式会社、1985年12月15日、112ページから)
作者 堀本春野(当時16歳、絵を描いたとき72歳)
木造建物の今

(ばく)(ふう)により屋根が大破(たいは)した本堂(ほんどう)
1945(昭和20)年9月18~25日
松本榮一撮影/朝日新聞社提供
はりが破損(はそん)したままの鐘楼(しょうろう)。2008(平成20)年5月
多聞(たもん)(いん)鐘楼(しょうろう)  多聞院は、1604(慶長9)年から比治山(ひじやま)の現在地にあります。山ろくで樹木に囲まれ、比較的安全と思われていたため、戦時中、県庁の緊急(きんきゅう)避難(ひなん)(さき)に指定されていました。
 原爆(げんばく)により本堂(ほんどう)庫裏(くり)大破(たいは)しましたが、焼失(しょうしつ)(まぬか)れました。8月6日の夕刻には、「県防空本部」が設けられ、救援(きゅうえん)物資(ぶっし)の受付所となり、握り飯の配給も行いました。翌7日の朝には「県防空本部」は東警察署(現在の銀山町(かなやまちょう))に移転しました。
 戦後、本堂は修復されましたが、火災により焼失(しょうしつ)しました。鐘楼(しょうろう)は、現存する木造の被爆(ひばく)建造物では最も爆心地(ばくしんち)に近く、屋根と天井(てんじょう)破損(はそん)したまま保存されています。(かね)供出(きょうしゅつ)で失われていましたが、1949(昭和24)年に「平和の(かね)」として製作され、毎朝夕に()(ひび)いています。


■所在地 南区比治山町7番10号
■爆心地からの距離 1,750メートル
■被爆時の名称 多聞院 鐘楼
■構造 木造
■竣工時期 1934(昭和9)年
■竣工時の名称 多聞院 鐘楼
■現況 被爆時のまま保存