エピローグ
校舎(こうしゃ)に残された伝言

撮影場所(さつえいばしょ)/袋町(ふくろまち)国民学校 爆心地(ばくしんち)から約460m

袋町(ふくろまち)国民学校の西校舎(にしこうしゃ)被爆(ひばく)直後から避難所(ひなんじょ)となり、階段(かいだん)や教室の(かべ)に、被爆者(ひばくしゃ)の消息を知らせ安否(あんぴ)(たず)ねる伝言が記された。1945(昭和20)年10月7日にこれを撮影(さつえい)した菊池(きくち)氏は、最後の望みを伝言に(たく)した人々の姿(すがた)思い描(おもいえが)いたに(ちが)いない。63年を()た今日も、この写真は、見る人にあの日の菊池(きくち)氏と同じ思いを()かせ、原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さを語り続けている。

おわりに

原爆(げんばく)によってすべてを(うば)われた人々は、自分の意思で立ち上がり、自分の力で生きねばならなかった。その様子をありのままに()り、見る人に問題を投げかける。それは、菊池(きくち)氏が生涯(しょうがい)一筋(ひとすじ)に取り組んだドキュメンタリー写真の本質(ほんしつ)である。そこには、演出(えんしゅつ)のない真実にしか(うった)えることのできない力がある。
広島平和記念資料館(しりょうかん)の使命もまた、被爆(ひばく)の真実を伝えることにある。菊池(きくち)氏の貴重(きちょう)な写真を整理し保存(ほぞん)するだけでなく、折にふれて活用することにより、これから何年、何十年先であろうと、目にした人々は、過去(かこ)に学び、自らを省み、進むべき道を見出すだろう。
被爆地(ひばくち)広島と被爆者(ひばくしゃ)復活(ふっかつ)を信じてシャッターを()し続けた菊池(きくち)氏の思いは、時を()核兵器(かくへいき)廃絶(はいぜつ)の願いを(うった)え続けるに(ちが)いない。

ご協力いただいた方々(敬称略(けいしょうりゃく)、順不同)

菊池徳子(きくちのりこ) 田子はるみ 広島国際文化財団(ひろしまこくさいぶんかざいだん) 中国新聞社 広島県立図書館 広島県立文書館