昭和20年 秋

原子爆弾(げんしばくだん)爪跡(つめあと)

1945(昭和20)年9月、文部省(もんぶしょう)学術研究会議(がくじゅつけんきゅうかいぎ)原子爆弾(げんしばくだん)災害調査研究(さいがいちょうさけんきゅう)特別委員会(とくべついいんかい)設置(せっち)され、その調査団(ちょうさだん)(以下、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)という)が結成された。
学術調査団(がくじゅつちょうさだん)補助機関(ほじょきかん)として記録映画(きろくえいが)撮影(さつえい)担当(たんとう)する日本映画社(えいがしゃ)は、スタッフに写真の撮影者(さつえいしゃ)を加えるため、優秀(ゆうしゅう)なカメラマンを(かか)える東方社に応援(おうえん)を求めた。東方社は、医学班(いがくはん)菊池俊吉(きくちしゅんきち)氏、物理班(ぶつりはん)に林重男氏、助手として田子恒男(たごつねお)氏の参加を決めた。
菊池俊吉(きくちしゅんきち)氏を(ふく)医学班(いがくはん)撮影隊(さつえいたい)は、宿舎(しゅくしゃ)があった海田町から鉄道やオート三輪で市内に入り、治療(ちりょう)の続く病院や救護所(きゅうごじょ)(たず)ねた。菊池(きくち)氏は、目的地へ向かう途中(とちゅう)で目についた建造物(けんぞうぶつ)や植物等の被害(ひがい)撮影(さつえい)している。
そこには、たった一発の爆弾(ばくだん)猛烈(もうれつ)な熱線・爆風(ばくふう)高熱火災(こうねつかさい)となって(おそ)いかかり、一瞬(いっしゅん)にして街を破壊(はかい)し焼き()くした様子が写し出されている。


横川駅から南方を望む 撮影場所(さつえいばしょ) 横川町三丁目 爆心地(ばくしんち)から約1.8km 横川駅のホーム東端(とうたん)()けられていた陸橋から撮影(さつえい)。焼け野原の中の真っすぐな道はアーチ形の横川橋へと続いている。左の建物は広島市信用組合本部。

ガスタンクに残る(かげ) 撮影場所(さつえいばしょ)/皆実(みなみ)町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約2km 広島瓦斯(がす)広島工場のガスタンク。表面に()られたコールタールは、熱線で()け、流れ落ちた。ハンドルが熱線をさえぎった部分だけが()けずに黒い(かげ)のように残っていた。

広島駅の構内(こうない) 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 爆心地(ばくしんち)から約1.9km 爆風(ばくふう)火災(かさい)により、天井(てんじょう)()内壁(ないへき)も焼けただれた広島駅の内部。駅舎(えきしゃ)(ゆか)には瓦礫(がれき)の山が残っているが、ホームには大勢(おおぜい)の乗客を積んだ列車が止っている。
 
広島貯金支局(ちょきんしきょく)から 撮影場所(さつえいばしょ)/千田町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約1.6km 爆心地(ばくしんち)のある北方を見渡(みわた)す。電車通りを(はさ)んで左に広島赤十字病院、右に広島文理科大学と広島高等師範(しはん)学校附属(ふぞく)国民学校。 上の写真はQuickTimeVRで制作しています。
マウスポインタで180度のパノラマがご覧いただけます。

中国配電本店を見上げる 撮影場所(さつえいばしょ)/小町 爆心地(ばくしんち)から約680m 鉄筋(てっきん)コンクリート(づく)り5階建の社屋は、熱線による発火で内部のほとんどを焼き尽(やきつ)くされた。爆心地(ばくしんち)に面した北側壁面(きたがわへきめん)の雨水管は、爆風(ばくふう)でちぎれ、折れ曲がっている。
 
熱線で焼かれたダイダイ 撮影場所(さつえいばしょ)/己斐町(こいまち)(現在(げんざい)己斐上(こいうえ)) 爆心地(ばくしんち)から約3.7km 己斐町(こいまち)の民家の庭先に育ったダイダイ。爆心地側(ばくしんちがわ)の半面が熱線で焼かれている。
広島県農業会と日本 貯蓄銀行(ちょちくぎんこう) 撮影場所(さつえいばしょ)/尾道町(おのみちちょう)(現在(げんざい)の大手町二丁目) 爆心地(ばくしんち)から約450m 現在(げんざい)のNHK広島放送局付近から北西に向かって撮影(さつえい)。中央の尖塔(せんとう)のような残骸(ざんがい)が広島県農業会広島支所(ひろしまししょ)。その左が日本貯蓄銀行(ちょちくぎんこう)広島支店。   中国軍管区兵器部倉庫 撮影場所(さつえいばしょ)/基町(もとまち)(現在(げんざい)の東白島町) 爆心地(ばくしんち)から約1.2km 爆心地(ばくしんち)の北東に位置する兵器部から爆心方向(ばくしんほうこう)に向かって撮影(さつえい)並列(へいれつ)に建っていたレンガ(づく)りの倉庫2棟(ふたむね)が、爆風(ばくふう)によってほぼ同じ形に破壊(はかい)された。