昭和22年 夏

広島との再会(さいかい)

1947(昭和22)年8月、菊池俊吉(きくちしゅんきち)氏は写真集「LIVING HIROSHIMA」製作(せいさく)スタッフの一員として、(ふたた)び広島を(おとず)れることになった。
この年、広島県観光協会は、海外からの観光客を誘致(ゆうち)するため、被爆(ひばく)惨禍(さんか)から復興(ふっこう)に向かう広島と県内景勝地(けいしょうち)紹介(しょうかい)する英語版(えいごばん)写真集の刊行(かんこう)を計画した。発行を委嘱(いしょく)された瀬戸内海(せとないかい)文庫の代表者田中嗣三氏が製作者(せいさくしゃ)に選んだのは、菊池(きくち)氏を(ふく)(きゅう)東方社のメンバーで再出発(さいしゅっぱつ)した文化社だった。
「LIVING HIROSHIMA 生きている広島」は、資金不足(しきんぶそく)検閲(けんえつ)などの困難(こんなん)を乗り()え、1949(昭和24)年5月に発刊(はっかん)された。冒頭(ぼうとう)の一文は「Hiroshima is still alive.(広島は今も生きている。)」だった。

写真集「LIVING HIROSHIMA」

街と()らしの復興(ふっこう)

1947(昭和22)年、焼け野原となった広島の街は、瓦礫(がれき)撤去(てっきょ)や整地が進み、激減(げきげん)した人口も被爆(ひばく)前の6(わり)()えるまでに回復(かいふく)した。これに(ともな)って住宅(じゅうたく)建築(けんちく)も進んだが、その多くはバラックあるいは簡易住宅(かんいじゅうたく)だった。
食糧(しょくりょう)や生活必需品(ひつじゅひん)依然(いぜん)として不足し、人々は耐乏(たいぼう)生活を続けていた。ヤミ物資(ぶっし)に手を出すことも、焼け(あと)無断(むだん)で畑を作ることも、生きて行くためのやむを得ぬ手段(しゅだん)だった。


家屋の建築(けんちく) 撮影場所(さつえいばしょ)/胡町(えびすちょう) 新しい建材を用いた建築(けんちく)も始まっていた。撮影場所(さつえいばしょ)金座街(きんざがい)(えびす)神社付近(ふきん)菊池(きくち)氏のカメラは、工具を()るう人々の明るい表情(ひょうじょう)をとらえている。
建ち(なら)簡易住宅(かんいじゅうたく) 撮影場所(さつえいばしょ)/基町(もとまち) 広島第一陸軍病院跡(りくぐんびょういんあと)に建てられた簡易住宅(かんいじゅうたく)。一戸あたり7坪(7つぼ)程度(ていど)の広さで、応急的(おうきゅうてき)(つく)りであったため老朽化(ろうきゅうか)も早かった。

猿楽町(さるがくちょう)の書店 撮影場所(さつえいばしょ)/猿楽町(さるがくちょう)(大手町一丁目) 原爆(げんばく)ドームのある猿楽町(さるがくちょう)一帯(いったい)は、被爆(ひばく)直後すべての建物が崩壊(ほうかい)猛火(もうか)に包まれた。生存者(せいぞんしゃ)皆無(かいむ)であった。2年後、瓦礫(がれき)の残る地面にアトム(原子)という名の書店ができている。
 
西練兵場跡(にしれんぺいじょうあと)の畑 撮影場所(さつえいばしょ)  基町(もとまち) 食糧難(しょくりょうなん)が続く中、人々は、空き地を見つけては畑を(たがや)し、カボチャやイモを植えた。西練兵場跡地(にしれんぺいじょうあとち)で畑を(たがや)女性(じょせい)。手前にはナスが実をつけている。

電柱の建て替(たてか)え工事 撮影場所(さつえいばしょ)/紙屋町 芸備銀行本店前、電車通りに立つ電柱の建て替(たてか)え工事。被爆(ひばく)直後は停電事故(ていでんじこ)が相次ぎ、電柱の建て替(たてか)えが順次行われたが、その都度送電を停止しなくてはならなかった。
 
相生通のかき氷店 撮影場所(さつえいばしょ)  基町(もとまち) 現在(げんざい)の広島市民球場前には、電車通りに沿()ってバラック建の小店舗(しょうてんぽ)(なら)んでいた。その中の一軒(1けん)でかき氷を売っていた。すだれの向こうに原爆(げんばく)ドームが見える。